2013年10月29日火曜日

11月支援活動のお知らせ


1.被災地訪問  参加者募集 
 

日程 1120日(水)朝~1122日(金)夕

主な予定:石巻、南三陸でのお茶会

 仮設での交流が中心となりますので、よろしくお願いいたします。
募集人数 4(人数になり次第終了)  募集期間 113まで
参加について
☆費用:交通費、ガソリン代、宿泊費、食事の一部はイザヤ58ネットが負担します。

☆はじめての方はボランティア登録をおねがいします。
☆また信徒の方の参加は、所属教会の牧師に事前にご報告ください。
 

連絡先 大泉キリスト教会(中川信嗣) 〒370-0521 大泉町住吉308

 Email:ecc412sm@yahoo.co.jp 電話 0276-63-2329
2.生活必需品サポートセット
 
被災地訪問に合わせて、関係している仮設の方々に、物資の支援セットをお届けすることを計画しています。「やがて、仮設を出て新しい生活の基盤を立て直す上で、今は、少しでも出費を抑えておきたい」という声を受けて、クリスマスを前に、支援物資をお届けすることに致しました。ご協力いただける方は、1110日(日)までに、大泉教会(上記)まで、下記の物資をお届けください。不公平にならないように、物資を指定させていただきます。また、スタッフ奉仕の軽減のため、下記の物資以外、また募集期日を過ぎて届いたものに関しては、大変申し訳ございませんが、お断りさせていただきます。ご了解ください。


①台所洗剤 250ml前後の液体洗剤

②洗濯洗剤 1㎏前後の粉末洗剤 

尚、支援物資に関して物品の提供ではなく、物品購入のための支援金に関しては下記の口座で受け付けております。

献金振込先 ■ゆうちょ銀行・総合口座 … (記号)10750、(番号)22936321、(名義人)田島直秀
※イザヤ58ネットの専用口座ですが、送金の際は田島直秀まで必ずご一報ください。

イザヤ58ネット代表:鈴木真(戸塚めぐみ)

事務局・会計:田島直秀(小山聖書)
ブログ配信中:http://isa58net.blogspot.com/

2013年10月15日火曜日

9月支援の活動報告

しばらくブログの更新ができず申し訳ありませんでした。
9月25日(水)~27日(金)の9月支援活動は中川先生(大泉教会)を含めて、4名の男性が参加しました。

イザヤ58ネット 被災地訪問 第十一次派遣 全体報告                                      中川信嗣

祈りの家をまず訪問
25日
 午前7時 太田教会集合、出発
午後12時半過ぎ 石巻 日和山へ
※一人の男性と出会う。息子をなくされ、毎日ここに上っては、人と話をすることで癒される。住む場所について課題があるとのこと。日和山から見る様子は、様変わりし、草が生え、状況が変わりつつあった。
午後1時過ぎ 石巻祈りの家到着(石巻での支援活動の窓口になっていてくださっている家の教会)
※阿部さんと石巻の支援の様子を聞きながら交わりの時を持ちました。
午後2時 袋谷地東仮設住宅
 祈りの家の方々、社会福祉協議会の方々、スタッフを入れて二十人近い人々の参加。童謡・賛美を太田教会から参加したH兄のギターの奏楽で一緒にする。抹茶と和菓子のお茶会。皆さんの経験や、今感じていることをお聞きする時間を持ちました。
仮設の方々と共にお茶っこの会を持ち歌う
祈りの家の方々がいつもよい支援をしておられます

午後4時頃 阿部さんの案内でかつて関わった石巻の方々を訪問
※餡子のNさん、携帯が散乱した畑で関わったAさん、ベンソン先生宅、泥出しをしたKさん宅
それぞれの場所で再会を喜びました。
午後7時過ぎ 仙台の神学校に到着。森谷先生と次の日の打ち合わせをして就寝。
かつてイザヤ58が家の修理をしたお宅を訪問

「家族を失った事、だんだんと笑えるようになった事、こうやって集まる場所があることが支えとなっている事、沢山の人たちからの支えられていることを感謝している事」などをお聞きできました。印象深い話は、「味噌汁を飲むたびに、誰かが自分たちのためにこういうもので支えてくださっていることをありがたく思いながらいただいている」と言われた男性、「部屋に戻れば、百も二百も不安や悩みがあるけれど、一時、ここで、みんなで笑ってそれを忘れることができる」と言われた女性の話。そんなことを聞きながら、小さくても、同じところに関わり続けるということの大切さを改めて覚える。
26日
 
午前6時45分 祈り会(イザヤ58:10-12)と食事
午前7時半 中澤牧師(南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク代表・聖協団西仙台教会)たちと合流して南三陸へ出発。
午前9時半 クリスチャンセンターへ到着。
午前10時 歌津の作業予定地へ到着
アラスカの冬に使うテントで設置は重労働でした
久しぶりの波伝谷仮設でのお茶っこの会
波伝谷仮設の自治会長Mさんの再建された食事処
「慶明丸」での食事。Mさんは震災の語り部としても
来訪した方々に震災津波の教訓を伝えております。
※サマリタンズパースが使っていた大きな仮設のテントをOさんの畑に設置。男性8人掛かりで3時間をかけてテントを設置。
午後1時 歌津を出発
午後2時 波伝谷仮設住宅(戸倉地区の私たちが特に支援にかかわった仮設住宅)でお茶会。童謡と賛美、和菓子と抹茶、そして会話の時を持つ。
昔、鈴木真牧師と一緒に、部屋で

お茶を頂いたMさんと再会。その他、懐かしい方々に再会。
午後4時半 慶明丸で食事
※アラスカに漂着したお店の浮が日本に戻されたことで有名な食堂。森谷先生を通して、イザヤも定期的に関わりを持たせていただいた仮設住宅の自治会長さんが再開したお店。おいしい海の幸に舌鼓。食事会には、阿部さん夫妻(石巻)、中澤牧師家族(南三陸)、さらに、Solaで奉仕されている平田さん(国分寺バプテスト教会子供支援派遣常駐責任者)や鈴木手以師(カンバーランド長老教会派遣スタッフ・中川の神学校時代の同期生)も合流して、色々な話に花が咲いた。今後の被災地での支援のあり方、さらにはその先にある宣教への方策。さまざまな示唆を受けながら、まだまだ話したいところでしたが、高速道路が夜には閉鎖されるために出発。
午後9時半 仙台の神学校へ到着、就寝。
午前6時半 起床 
27日
 午前7時半 少し遅めの朝食と祈りの時(マタイ25章35-40節)
午前8時過ぎ 森谷先生が入れて下ったコーヒーを片手に語らいの時。
午前10時 神学校を出発
午後1時前 福島の郡山キリスト福音教会に到着
※木田俊彦牧師をはじめ、恵嗣牧師が迎えてくださり、恵嗣牧師が、1時間ほど、福島の現実を資料も用意してくださり分かち合ってくださいました。私たちが関わりを持たせていただている宮城とはまた違った問題、それは復興ということ言葉が一層、重く感じる放射能問題の現実に改めて触れる機会でした。
午後2時 教会出発
午後5時過ぎ 太田に到着。祈りを持って解散

参加者からの報告

O兄(高崎)
 仮設で、聞いたこと。「オリンピックは7年後、私たちは何年後?」との痛切な発言が忘れられない。行きたい。大きな仕事がここにある。

H兄(太田) 「イザヤ58ネット被災地訪問に参加して」
 「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20・35)夏におこなわれたコンサートにより、主の尊い愛に目がひらかれ、私は今まで自分のために生きてきた事を示されました。それ以来、これから私はどうしたらいいでしょうかという祈りを専らするようになりました。そんな時にイザヤのボランティアの募集を知ったのです。それまでは人並み以上に被災地に深い関心があったわけでもなく、ウイークデーの3日間、仕事に穴をあけることは不可能に思えました。数週間祈り続け、鈴木先生や中川先生に相談したところ、とにかく行ってみること、関心を持つことが重要だと助言を受けました。祈りつつ会社や家族の同意を取りつけて参加の道が開かれたのです。
 実際に行ってみてまず初めに感じたことは、海面や川面が異常に高いということです。地盤沈下していることを肌で感じました。また津波が到達した高台に立って湾を見下ろすとその高さに背筋が寒くなる思いがしました。
 仮設住宅の訪問では茶話会「お茶っこ」で抹茶を振舞ったり童謡を歌ったり、そして被災者の方々の話を聞きました。信頼関係を築くこと、いいえ、友となることの重要性を知らされました。もっと積極的に福音を語るのかと思っていたので少し肩透かしを食らった格好でしたが、信頼と尊敬が築かれていない状態で福音を語っても、土足でその人の心に踏み込むようなものだというスタンスなのです。土着の神々への信仰のある海辺の町での
伝道には様々な困難もあります。遠回りのようにも思えますが、真に「寄り添う」宣教(宣証)だと感じています。
 以前イザヤでヘドロを掻き出したお宅を訪問しました。周りは所々空き地になっていて微かに異臭がしていました。津波で流されたり、取り壊された家の跡地です。残ったどの家にも外壁2メートル強のところに茶色い線が付いています。右隣の家はヘドロを取らず住んでいましたが、家族全員に湿疹ができ、とうとう転居されたということです。そんな住宅が他にもたくさんあり、被災はまだまだ続いていることを痛感させられました。
 被災者の声を聞けた事とともにもう一つ大きな収穫はその地に腰を据えてボランティアに取り組んでいる先生方やスタッフに会えたことです。それこそ全てを捧げて被災者に寄り添おうとしている姿に感嘆せずにはいられませんでした。「あなたも行って同じようにしなさい。」というイエス様の言葉を忠実に実践しているのです。
弱さを持った方々、助けを必要としている方々は私たちの周りにも沢山いらっしゃいます。そういう方々の友となり真の隣人になることを主は望んでおられるのだと教えられました。被災地訪問には一人でも多くの方に参加してもらいたいと思います。そして体感してください。主は被災者を顧みられると同時に訪問者をも祝福し、新たな、そして豊かな信仰の道を備えて下さると信じます。

S兄(前橋)
東日本大震災被災地訪問(石巻市、南三陸) 
● 25日(水)
○わたしにとっては、しばらくぶりの被災地訪問であった。今回はお茶会が中心で被災された方の二年半の「思い」を多少ではあったがお聞きすることが出来た。
○初日は、石巻市の仮設住居への訪問予定であったが、その前に、「日和山」によって被災地の“その後”を見させていただいた。震災直後は瓦礫ばかりのモノトーンの光景であったが、今は、少なくとも上から見下ろす光景は「牧場」のような雑草の緑が拡がっていた。近くでベンチに座っている男性に声をかけた。Aさん。眼下の海の近くに住んでいて被災した。津波警報があったとき出かけていた奥さんを呼び戻し、家にいたお嫁さんと3人でここに非難して助かったそうである。お孫さんもいたが、今裁判で問題になっている日和幼稚園に通っていた。幼稚園にはバスが2台あったそうで、お孫さんは被災されたバスではないもう一台のバスに乗っていて助かったとのことであった。しかし、別れ際に、Aさんの息子さんが仕事先で死んだことを話された。胸が詰まって、言葉が出なかった。
○石巻市のH仮設住宅訪問。
・仮設住宅から14名の方が集会室に集まった。ご高齢の方がほとんど。お菓子を食べながら、中川先生の点てた「抹茶」を味わい、おしゃべりをし、太田教会のH兄のギターで童謡や賛美歌を歌った。そして、集まった方々からお話を聞いた。
・Nさん 津波の時、脳梗塞で伏せっていたご主人が、水に沈んでしまった。Nさんは夢中で“馬鹿力”を出してご主人を引き上げたそうだ。助かったが、その後、ご主人は二回目の脳梗塞で倒れた。今は寝たきりになってしまい、その介護で明け暮れているという。明るく話してくれた。
・Oさん 仮設入居者ではないが、社会福祉協議会の「見回り隊」のお一人であり、このお茶会に参加。入居者の必要について話された。仮設の方々の今の問題は、住まいが決まらず、将来に見通しが持てないこと。東京でのオリンピックが決まったが、私たちに7年後は見えてこない・・・と訴えられた。
・Tさん ご主人が亡くなられた。涙が溢れ、話が出来なかった。彼女だけでなく、参加者の多くが、身内から犠牲者を出している。しかし、そのことに触れられない。触れればみんな泣かずには居れないのだ。
・Sさん(男性) 津波で妻を亡くした。ひとりで生活している。毎日、煮炊きしている。味噌汁も作っている。味噌を最初はハシでといたが上手くいかない。毎日やっていてだんだん出来るようになった。作るたびに、味噌、醤油を無償で支援してくれる親切に人の情けを感じている。長い間生きてきたが、人はこういうモノを求めているのだと気づかされていると話された。
●26日(木)
○ 南三陸町歌津(うだつ)地区でテント張りの手伝い。作業は、仙台の中澤先生が中心になってすすめられた。3時間ほどで完成。これは、南三陸町志津川で被災されたOさんの仕事支援が目的であった。Oさんは、志津川の自宅が流された。また、入院していた母親が震災直後に死去したという。津波のために停電が続いたことが原因ではないかとOさんは思っている。
○ その日は、午後2時から、南三陸町波伝谷仮設住宅にてお茶会。18世帯、60人が入居している小さな仮設だ。この日は10名ほどの方々が集まってくれた。ここは志津川湾の南側の海辺から山手に入った高台で、民有地の果樹園に設置されている。入居者は、同じ部落の仲間であり、運営は、比較的うまくいっている。波伝谷という名は、津波に由来したことばであり、昔からたえず津波の被害にさらされてきた。今年90歳を迎えるというMさん(男性)は、1960年のチリ津波を経験。それで、再度家をつくるときその土台を津波の最も高かった位置に据えたという。しかし、今回の津波はそれを何倍も上回ってしまった。
・この仮設住宅からは、志津川湾の豊かな海が見下ろせる。だから昔から何代にもわたってこの集落で生活をしてきた。被災したが、みんなこの地が好きだという。今行政が7メートルの堤防を造る計画をしているそうだ。しかし、みんな強く反対している。この海が見えなくなるからだ。そこに生活している者でなければ分からない、もう一つの闘いだと思う。
・レストラン「慶明丸」再建した三浦さき子さんも、仮設の一人だ。浮き球が、アラスカで発見されて話題となった方だが、レストラン再開には、子どもたちなどの猛反対があったという。しかし、三浦さんは、「仲間の集まれる場所をつくり、波伝谷に来てくれる人たちに、「慶明丸」が、ここにあったのだと伝えていきたい一心で再建した」と話された。また、三浦さんはこれからのことについて、仮設住宅退去の時期が来たときに、今までなかった、「格差」が出てくるのではないかと、仲間達のことを案じている。
○ 私たちは、夕食をその慶明丸で食べた。取れたてのホタテの甘みが美味しかった。外はもう真っ暗で星がきれいだった。宿舎の神学校に到着したのは、夜の9時半頃であった。明日はもう三日目で、帰路につく日だ。

Nさんからのハガキ。
出発を前に、石巻のNさん(今回もお会いした)から便りが届きました。
「(途中から)…お便りに書かれていた”イザヤ58ネット”を見て気付きましたが、ミシンを支援くださったのは中川さん達だったのですね!実は購入をしようとしていた時にDeanさんからお声かけいただいたので、本当にすごいタイミングでした。包装等もとても丁寧で、皆さんの思いが伝わってくるようでした。ぜひともお礼と思っていたので、ご支援くださった皆さんへ、中川さんから伝えていただけないでしょうか。失ったミシンは結婚のお祝いにと毅(ご主人)さんの二人の妹からプレゼントされたものですが、そのミシンよりももっともっと歴史のある品が届きました。本当にうれしく思っています。大切に、大切に使わせいただきます…」