2011年11月26日土曜日

救援物資を届ける

仙台に到着しました。約3トンぐらいの物資です。ここでいったん一部物資を降ろして、乾燥機を4台積んで南三陸町に向かいました。
八ヶ月たってもまだ南三陸町は、この状態です。何もありません。
津波で鉄の塊となった自動車のガレキの山
南三陸波伝谷地区仮設住宅に乾燥機を降ろしています。山の斜面にある仮設住宅で、仮設の集会所に搬入しました。仮設の中で集会所しか畳はひいておりません。
神割崎キャンプ場仮設住宅の自治会副会長さんと、イザヤ58のメンバーです。とても喜んでくださいました。後日、乾燥機はガス工事屋さんが配管設置する予定です。
支援物資を降ろしているところです。今回、K兄のクレーン付きのトラックが大活躍でした。
大久保地区仮設住宅での支援物資を受け取る様子です。衣料などを並べて、必要なものを探している様子です。
衣料だけでなく、米、みそ、醤油、食料品、紙おむつなど日用品も各仮設住宅に必要に応じて配分して
支援しました。
波伝谷仮設住宅の集会所です

2011年11月24日木曜日

画像で見る報告(物資積み込み作業)

多くの物資が献げられました。今回は、その積み込みの様子です。
いかに大量かがわかるでしょう。
どうトラックに積むかを考えるのに苦労しました。

クレーンが大いに力になりました。これがなければ積んだり、降ろしたりできなかったでしょう。

16日の午後1時30分から積み込み(午前中館林でも積み込み)、終わったのは夜6時30分頃でした。


仙台で、乾燥機を運ぶために、支援物資の一部を降ろしました。朝、5時半に出発して、10時に仙台に到着し、乾燥機を積み、11時に南三陸町に向かいました。

2011年11月22日火曜日

石巻の支援活動

今回の報告は、18日(金)、19日(土)の石巻の支援活動ついての報告をします。
石巻の支援活動
 17日(木)に2チームに分かれて、南三陸町と石巻への活動をしましたが、引き続いて18日も物資を運ぶ南三陸チームと石巻のチームに分かれて活動しました。17日に、それぞれのチームが佐野から出発してたので、17日の夜、初めて拠点の仙台バプテスト神学校で会うということになりました。自分は南三陸に17日は石巻チームより遅く行って帰ってきたのですが、先に夕食を食べていた時に会うことになりました。当初、石巻チームのメンバーが、あまり話をせず黙々と夕食をとっていたのでとまどっていたのですが、翌日、自分が石巻への支援をしてわかりました。それは、実に骨の折れる疲れる支援活動で、初日、長旅してすぐ石巻で午後めいっぱい活動をしていたメンバーは、大変疲れていたことでした。
 南三陸と石巻の被災の状況は、まったく異なっています。それは、南三陸ではリアス式の海岸(海岸線が入り組み、山間の湾岸部)に津波が集中的に襲って来たため、集落が根こそぎ破壊され、そのすさまじさは、第二次世界大戦時にB-29によって日本の町が絨毯爆撃にやられた写真と似た光景です。車という車が金属の固まりになってしまっていたり、五階建ての鉄筋コンクリートのマンションが津波に襲われ、屋上に乗用車が乗っかっていたり、三階建ての消防署の屋上に10トントラックがのっかていたりと、すべてが破壊されていました。ですから、支援活動は、高台の避難所や現在は仮設住宅への物資支援と精神的なケアーが働きの中心でした。ガレキの撤去などは自衛隊など専門的な働きとなっています。
 一方、石巻は違います。港や海岸部の地域は同じように更地のような被害ですが、広範な平野部に津波が襲ってきて、平らな地域に津波がなめるように住宅を破壊しています。しかし、町の真ん中に流れる川の土手で津波が止まった地域などもあります。ですから、町の中に入ってきますと、普通の町並みがあり、大きな道路の沿線では、ファミレスや自動車デーラーの店舗や、その後ろに住宅地が広がって、どこに地震の影響があるのだろうかと当初は不思議な気がします。しかし、一歩、横道に入り、海側に近い地域に入りますと、様相は一変します。家という家は建っているけれど、一階部分は柱だけでかろうじて二階部分がその上にあるという家や、新しそうな家の一階部分は壁が全部ないとか、向こう側が見える大きな穴となっている建物ばかりです。工場の倉庫も、八ヶ月経っているいますが、壊れたままになっていたり、大手のスーパも建物はあるけれど、中は何も無い状態。そのような住宅地域に行きました。
 イザヤ58ネットが石巻での活動をしてた当初から、いろいろ支援の内容を指導してくれているサマリタンパースのスタッフのベンソン宣教師が支援先を案内し、内容を指示してくださっています。
 家の復旧活動ですが、4月からこの地域での活動は、津波で壊された家屋や庭などのガレキの撤去やヘドロ除去でした。それは大変な重労働です。床下をはがし、ヘドロをバケツに入れてくみ出す作業でした。
 今回は、床下のヘドロは除去されていて、一階の天井まで津波がきたため、天井の梁や窓枠にこびりついたヘドロやゴミをへらやブラシでとっていくという作業です。隣の家はそれらが終わり、アメリカから来た大工さんのボランティアは床や壁を張っています。ヘドロ除去→家屋内部の洗浄、消毒→床や壁の貼り替えと段階を踏んで一戸一戸時間がかかる修復作業です。私たちが天井や梁のヘドロを丁寧に除去したら、翌週は洗浄、消毒をする予定だそうです。
 まだまだ周囲の家屋は、一階が柱と壁しかない、かろうじて無事だった二階部分に住んでいる家々が並んでおり、また建てて一年しかたっていない一階建てのアパート群は、何も手が着いていず、ゴーストタウンの町の一部のようでした。
 一般のボランティアグループも来て、家屋の修理に取りかかるのですが、あまりにも時間のかかる作業のため、一度来て、修理を途中でやめて帰ってしまうグループもいて、ベンソン宣教師のグループが、忠実に丁寧に家屋の復旧活動をしている状態です。
 半日、脚立にのって天井の梁のヘドロをへらで削り取っていく作業や、トイレの床下をブラシで掃除していく作業は、南三陸町のような家屋がねこそぎ津波でない地域への支援活動とは違う支援活動であることを身をもって体験しました。
 次回は、石巻で忠実に支援と宣教活動をしているキリスト者の活動を報告します。今回は画像がありませんが、次回に掲載したいと思います。

2011年11月19日土曜日

11月17日からの支援活動

物資支援と一緒の支援活動
 今年、イザヤ58ネットの最後のチームによる支援活動が11月17日(木)~20日(日)まで行われております。現在、支援活動のチームの一員として、宿泊地の仙台バプテスト神学校からブログを発信しております。
 今回は、福音伝道伝道教団の18教会からいただいた、現地の必要物資のリストに基づいた物資を2。5トントラックに満載して、南三陸町と石巻の2チームで編成されて来ています。
 支援物資は、冬用の衣類、毛布、さまざまな生活日用品、米、また現地をからの要望があったミシンなどを運びました。
 前日の、16日(火)に物資集積拠点である佐野オリーブ教会で、荷物を積み込みました。その前に、毎回支援物資を運ぶときにお世話になっている館林教会のK兄、S兄などが、館林教会で集められた物資を積んで、佐野オリーブ教会に来てくださいました。比較的、建物のスペースの余裕のある佐野オリーブ教会でしたが、荷物の多さにびっくりして、「こんなに積載できるだろうか・・・」と思ったくらいの量です。午後1時すぎに、館林教会からトラックが到着したらさらに、ビックリで、トラックの半分がもう積まれているように見えるほどの物資でした。
 しかし、この道のプロであるK兄は、よく堤防や海の仮の堤防などに使用される、大きな頑丈な工事用布袋を幾つか用意し、そこに物資を入れて、ユンボと言われるトラックについているクレーンで釣り上げて載せていきました。
<クレーンがあり助かりました。よく積み込めたと思うくらいの量でした。> 
翌日、物資支援チームは、南三陸町の仮設に物資を運ぶ予定でしたが、仮設住宅の自治会長から支援の依頼があった衣類乾燥機が3台、仙台バプテスト神学校に届いていることの連絡があり、仙台によって、翌日支援地域に運ぶ予定の支援物資の一部をおろして、三台の乾燥機を
積み込むことになりました。
 今回、最初に物資を運ぶ予定の仮設住宅は<波伝谷>地区の仮設住宅で、皆さんが1時ごろ到着を待っているということで、朝、5時45分ごろ、夜明け前に佐野を南三陸町チームは出発しました。石巻チームは8時に、石巻に向かって出発しました。
<波伝谷(はでんや)仮設住宅について> 
トラックと仙台SBSの責任者で、今回の物資支援の被災者たちとのコーディネートをしてくれたM先生夫妻と一緒にワゴン車とトラックで波伝谷地区仮設住宅に向かいました。M先生の運転で、南三陸町の波伝谷に向かったのですが、まだガレキこそ片付けられているけれど、津波で破壊された堤防や港弯施設の間を縫うようにして、海岸から山に向かいました。正直いってトラックが通れるだろうかという狭いくねくねとした急な山道を登って、こんな所に人が住んでいるのだろうかという山林を縫って山道を登り切ったところに、20戸ほどの仮設住宅がありました。
 波伝谷仮設住宅は海が下に見える、海岸沿いの山の上に、山林を切り開き、山の斜面にへばりつくようにして建てられた20戸ほどの小規模な仮設住宅でした。向かう途中、「波伝谷って、ずいぶん変わった呼び方の地名だね」とメンバーと話あっていましたが、後で仮設のお年寄りから教えてくださったのは、この地区は海岸からすぐ、山の谷間がある地区で、地元の言い伝えでは何百年前の昔、大津波がやってきて、この山の谷間で波が来たというところから「波伝谷(はでんや)」と呼ばれている。この南三陸では、山間部なのに「大船(おおぶね)」という地名があったり(波で船が流れ着いた)、切蘇木(きりそぎ)といって波で切り取られた地という津波に由来する地名があるということだそうです。それだけの津波の歴史があるということだとのことです。
 この波伝谷の仮設住宅の人は、みんな漁師の家庭で、海岸沿いに住んでいた人たちの仮設ということでした。今回の津波から助かったこの地区人たちはみんな浜に近いところに住んでいた漁師たちの家庭ばかりだったそうです。津波で亡くなった人たちは、海岸から離れて住んでいた人たちで「まさか、ここまで来ないだろう」といって逃げ遅れた人たちばかりだったそうです。
仮設住宅で訪問で知った課題
(乾燥機を積み降ろしているところ)
 波伝谷で支援物資と乾燥機一台を降ろして、神割崎キャンプ場仮設住宅、津の宮地区仮設住宅、切曾木地区仮設住宅にそれぞれ一台づつの乾燥機と支援物資を届けました。
 他の地区に物資を波伝谷の自治会長の案内で、届ける間、残っているメンバーで、仮設の人たちと「お茶っこの会」というお茶を飲みながら、傾聴活動をしました。そこでわかった仮設住宅のことは、この波伝谷の仮設にいる人たちは、全員、仮設住宅の抽選に外れた人たちばかりだそうです。そこで山林を持っている地区のある人が、自分の土地に仮設住宅を建てることをお願いして、同じ地区の人たちばかりを集めて住んでいるそうです。ですから、遠い親戚、昔から知っている人たちばかりで、雰囲気はとても明るく、お互いを助ける姿勢が全体にあるようでした。
 お茶を飲みながら、お話を聞いている中で、新たな支援の課題を知ることができました。一つは、仮設住宅の寒さ対策は、想像以上に厳しいということです。波伝谷の仮設はお年寄りばかりです。その仮設住宅の床は、薄いクロスが張ってあるだけです。仮設の集会所には畳敷きですが、各家庭の部屋は、畳はないのです。底冷えがして、かといって、石油ストーブは狭い部屋では、寝る時は危ないし、エアコンは電気代がとてもかかるし・・・といったぐあいです。今回、M先生は、布団と床の間にひく、銀色の保温シートを各戸分を運んできて、大変喜ばれていました。
みなさん、想像してみてください。病院や学校のPタイルの床に 、クロスシートを張ってあるところに布団で寝る状態を・・・。年寄りにはこたえます。
 もう一つの課題は「在宅被災者」の問題です。石巻の支援でも同じですが(石巻の支援活動は次回ブログで報告します)、避難所や仮設住宅には、公的支援がいくし、支援団体も支援しますが、波伝谷の仮設住宅の方が「私たちは、寒いとか不便だとあるけれど、同じ地区の在宅の被災者(家は壊れているけれど、何とか住める人)、また民間のアパートが仮設住宅のように借りて被災者が住んでいる人たちは、一切の支援がないのが現状だ・・・そういう人たちは、住んでいる場所もバラバラで、本当に大変だ・・・」と聞きました。今後は、仮設住宅の人の紹介で、そのような方々に支援するルートを開拓する必要があります。そのためにも、そのような情報を教えてくださる仮設住宅の方々への傾聴活動は、とても大切です。
 次回は、石巻の南三陸町とは違った被災状況と支援活動について報告したいと思います。
物資の配布の様子です。自分の必要なものを探している仮設住宅の方々

2011年11月15日火曜日

第二回「南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク」会議

11月14日(火)に8月に結成された「南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク」の第二回の会議が開催されました。場所は、普段、私たちイザヤ58ネットの支援チームが宿泊場所にしている仙台バプテスト神学校で午後1:00から4:00までの大変密度の濃い会議でした。日帰りで出席してきました。
 第一回の会議は、8月に南三陸町にある、避難所にもなっていたホテルで開催されました。その時は、80名くらいの人数で、様々な団体や支援活動をしている教会の代表者が参加していました。一度でも南三陸に支援活動をしたグループも参加してたので、主な大きな団体の活動報告とネットワークを結成する主旨説明で終わって、踏み込んだ話はできませんでした。
 しかし、今回は、30名くらいの人数で、出席した団体も絞られていました。理由は、幾つかあり、他の福島での支援会議と日程が重なったり、また、支援の働きの力点を他に移したグループがあったこと、さらに、支援活動の資金が底をついて、働きを休止したグループなどがあったりしたために、今回は継続的に南三陸町に支援活動をしているグループに絞られた感じです。

仮設住宅への支援について 
 それぞれの活動報告が、具体的な場所などを挙げて報告がなされました。おもしろいことに、それぞれが重点的に支援活動をしている仮設住宅が重ならないで、お互いの活動に気を使ってうまくすみ分けができているようでした。また被災者の個人名などがでてきて、それぞれが被災者たちとの個人的関係が築かれはじめてきて、証しのチャンスが広がっていることです。
 この支援ネットワークの特徴は、震災当初から南三陸町に入って支援活動をしていた代表者の仙台のN牧師が行政とパイプができていることです。行政がどのような支援を私たちに求めているのかを常に訪問して、率直な意見交換をしていることです。
 そのような中で、仮設住宅への支援活動で浮かんできた課題が「支援の均等化」という問題です。企業などが支援を送ってくるのですが、ある意味で事前情報をしっかりつかんでいないこと、単に企業イメージをアップさせるために、ドーンと物資を送ってきて、「もう、この仮設住宅には物資はいりません」と訴える仮設の自治会長がいたりする反面、何も支援がこない小さな仮設住宅、あるいは、かなり山間のめだたない場所にある仮設住宅などがあり、「私たちを見放さないでね・・・」と訴える仮設の代表の声などがあることです。また一般の大きな企業や支援団体の支援物資が、仙台のリサイクルショップに箱ごと売られているという報告もありました。つまり、必要なものを必要な量を支援するという事前調査をしないで、物資を送ってきても、「今必要なのは物よりも現金だ」という被災者もいるということです。
 今回、そのような一般の支援活動で見られる問題が起きないように、お互いの支援活動が重複しないように、緊密な情報交換のネットワークが必要とされています。
行政と被災者、地域コミニティーのパイプ役 
 また、行政となぜ緊密に連絡を取り合うのかというと、実は、南三陸町だけでなく、三陸海岸の町の行政の問題は、町の職員たちも被災者だということです。被災者は、町の行政に当然のように支援サービスを求めてきます。しかし、行政組織が壊滅して、立て直ししながら被災者対策をしていく行政は必ずしも行き届いた行政サービスができない面もあります。さらに大きな問題は、それぞれの行政分野の専門担当だった人たちが、被災して死んでしまったりして専門知識に乏しい人が担当することにもなっているそうです。たとえば、それまで下水道課の職員が、福祉関係の担当にならざるおえないという事態があるわけです。
 キリスト者ネットワークでは、そのような行政の側にも大きな悩みをかかえ、個人的にも大きなストレスを抱えている職員が少なくない現状の中で、行政の側の必要、また被災者の側の必要などを聞きながら、キリスト者として平和の絆の構築を目指していくためです。次回の会議には、被災者の代表や行政の代表も出席してもらうことを目指しているそうです。

 さらに、中には、私たちイザヤ58の支援活動に「バーベキュー大会」「芋煮会」などの活動を聞いて「なんだ、支援といっても、食べたりする活動じゃないか(笑)」と思う方があるいはいるかもしれません。これらのイベントの企画の主旨は、被災地では、それまでの地域コミニティーが壊れてしまっている問題もあるからです。支援物資の配給の問題で、隣近所の関係、あるいは町内会が壊れてしまったり、集まる場所がなくなったりしています。
 以前に大森地区で支援とバーベキュー大会をしたのは、地域の区長が「昔のような、隣近所が和気わいあいとした関係に戻したい・・・」という願いから、私たち支援グループと被災者の親睦というより、被災者同士のつながりの再構築という意味で企画しました。
 また、仮設住宅は、抽選で場所が決まるため、いままでの隣近所の人ではなく、それぞれが違う地域から来た人たちが集まっているのです。お互いが知らなかった人たちが、同じ集落で生活をする、当然、孤独死などが問題になります。私たちキリスト者として支援は、そのようなパイプ役になることではないかと思います。
 今回、被災者の協力してくれる方が、南三陸町の全部の仮設住宅のある場所をグーグルマップで掲載した地図を作成してくれて、私たちネットワークに提供してくれました。
 大きな仮設住宅、小さな15世帯ほどの仮設住宅、それらすべてがわかる資料をキリスト者ネットワークは持っています。その地図を見ながら、イザヤ58ネットの活動も、きめ細かい働きのお手伝いができると思います。
イザヤ58ネットを支援してくださっている方々のすごさ 
 今回「キリスト者ネットワーク」の二回目の会議に出席して感じたことは、「イザヤ58ネットを支援してくださっている方々のすごさ」ということです。前にも述べましたが、第一回のネットワーク会議に比べて、参加グループが絞られた理由の一つに、支援活動の資金が底をついて休止したグループもあります。もちろん外国からの資金援助のパイプの大きい支援団体や教会もあるのですが、イザヤ58ネットという関東に限られた教団の教会が中心になって、物資を三回も送り、また、4月からほぼ毎月、支援チームを送ることができるのは、この働きのために支援してくださっている諸教会の信徒の力が本当に大きいということを、会議に出席して痛感しました。本当にありがとうございます。
 日赤や大きなNGOへの義援金という援助の形もありますが、イザヤ58ネットという小さなグループへ献金や物資支援してくださった方々に確実に言えることは、みなさんが献げてくれた物資や献金がいきつく場所がどこなのか、具体的にわかることではないかと思います。今回17日に持って行く支援物資は、南三陸町の波伝谷(はでんや)という地区の仮設住宅で、まだ支援が行き届いていない山間の15世帯ほどの仮設住宅とできたら他に二カ所の仮設に物資を送りたいと願っています。また物資支援のための献金から乾燥機を二カ所の仮設住宅に設置するための購入資金として使う予定です。設置が終わったらブログで報告したいと思っております。

2011年11月8日火曜日

11月17日からの支援

 10月29日に開催されたイザヤ58ネット特別集会には、多くの方々が出席されたことを主催者として感謝しております。
 その集会で受けた様々な霊的な思いを心に留めて、私たちは冬を迎えようとしている被災地の支援に目を転じております。
 今回は11月17日~20日の予定で、冬の支援物資を南三陸の幾つかの仮設住宅に持って行きます。避難所時代もそうであったのですが、どうしても目につく避難所(テレビなどで放映された避難所など)や規模の大きな避難所などには物資は届きやすいのですが、小さな避難所は支援の過疎状態が生じてきていました。同じように仮設住宅にもその現実は変わりません。
 今回、私たちは南三陸の幾つかの支援が十分に届いていない山間の小さな仮設住宅地域に物資を届けます。私たちが今後のことで心配していることは、震災で津波などで直接的に亡くなった犠牲者の2倍~3倍の方が被災後の避難生活の中で、病疾患や自殺などで亡くなるという統計的な事実です。そのことをいつも念頭において、今後の支援活動をしていきたいと願っております。
 具体的支援は今回の支援で今年の活動は、終了しますが、イザヤ58ネットのスタッフは、できるだけ現地に赴いて、来年1月以降の活動のため、ほかの支援グループとの情報交換や、ネットワークづくりに努めていきたいと考えております。
 今、他の支援組織と連携を考えていることは、ある小さな仮設住宅の自治会長からの要請で、これから冬になって、被災地では洗濯物が天候の関係で外で乾かせないことが多いので、乾燥機をなんとかしてもらえないかという要請がきております。
 仮設住宅の集会所に設置して、いくらかの使用料金をとって、その貯めたお金は、仮設住宅の自治活動に使えればという考えだそうです。
 今、コインランドリーなどにあるような乾燥機を業者に問い合わせております。幾つかの支援組織と費用を出し合い、支援できないか検討しております。イザヤ58ネットの物資支援のための指定献金から、その費用の一部をイザヤ58ネットで負担することを検討しております。仮設住宅での最初の冬を過ごす被災者、なんとか自分の家があるが、依然と復旧が必要な家屋、まだまだ支援の必要性は、物心両面で必要と思われます。
 しかし、同時に、キリスト教団体、教会の支援がキリストを証しする働きとして、今までにない東北の人たちの心が開かれる反応が見られます。息の長い支援と、キリストの愛を伝える宣教の活動が神様の知恵をいただきながら、すすめていければと願っております。

2011年11月3日木曜日

10月29日イザヤ特別集会「東日本大震災・・・あれから八ヶ月」

 10月29日(土)、秋晴れの中、群馬県太田市の太田キリスト教会で、「東日本大震災・・・あれから八ヶ月」というイザヤ58ネット特別集会がもたれました。特別講師として福島第一原発から数キロしか離れていない場所に教会があり、あの3月11日の震災による原発事故により、すべての教会員含め七万人の住民がすべての家財も家もおいて、津波と放射能被害から避難せざるおえなかった人たちの教会、福島第一バプテストの主管牧師の佐藤彰先生をお迎えして、震災を境に一瞬にして様相が一変し、避難に次ぐ避難を教会員を連れ、まさに出エジプトのイスラエルの民が荒野をさまよったように、教会ごと避難所から避難所に転々とした「流浪する教会」と呼ばれた群れの苦悩とその中で受けた神様からの教え、恵みをお話していただきました。出席者は、主催側の予想をはるかに上回り170名の出席者でした。
「この集会の主旨」
 今回の集会は5月頃から、イザヤ58ネットで企画が検討されていました。それは、震災直後は生々しいニュースが私たちの元に入ってくる。しかし、時が経つにつれて関心や意識が風化してしまうのではないか。さらに、祈りの手を挙げ続け、支援を続けることの大切さを訴えようと考えられていたものでした。
 私たちイザヤ58ネットの支援は、主に南三陸町、石巻が中心となっています。宮城や岩手と並んで福島も震災で大きな被害を受けております。私たちは、それらの地域を忘れてはなりませんが、残念ながら、私たちの組織の規模や支援体制では、手が届かないのが現状です。しかし、私たちは原発被害にあった人たち、震災にあった福島の地域の癒しを岩手、宮城とともに祈り続けていきたいと思います。
「佐藤先生のお話」 
 佐藤先生は、教会が原発が建設される前からあった教会、その教会が震災に遭うまで、着実に地域に根ざし、様々な教会の活動があり、豊かな交わりの共同体が形成されていった様子を、震災の日の二時間前には子供たちの特別集会の様子なども映しだされたスライドを交えながらお話をされ、そして一転して、震災直後の津波に襲われた地域や、2008年に建設された会堂の中が震災でメチャメチャになり、そこから60数名の教会員と共に転々と避難生活をしていった中で、この事態をどう聖書を通して神様が語りかけたかを順々に聖書の言葉を示しながら語っていただきました。
集会を企画して 
 今回、イザヤ58ネットの活動の報告も予定しておりましたが、十分に報告の時が時間的にもてませんでしたが、多くの人が、震災から八ヶ月が経過した現在も、被災地への関心、支援の継続的な実施について強い関心を持っておられることが伝わり、主催者側としては大きな励ましとなりました。
 またイザヤ58ネットの活動に関わった牧師たちには、佐藤先生の危機的な状況の中で、群れを支えていく牧会者としての霊的姿勢に深く教えられました。
イザヤ58ネットの今後 
 今後のイザヤ58ネットの活動予定は、11月17日(木)~20日(日)に南三陸の仮設住宅への支援物資を送りながら被災者への傾聴活動、地域コミニティー再建の一助としての仮設住宅におられる方の交わりの形成をお手伝いします。また石巻の被災住宅の再建の支援活動を予定しております。
 今回の支援チームが今年最後の派遣となります。しかし、「南三陸町を支援するキリスト者ネットワーク」が建ち上がり、私たちも、そのネットワークに加入しましたので、そのネットワークの会議などに出席し、来年以降の活動について模索検討したいと思います。今後とも、イザヤ58ネットの働きのため祈りと具体的支援をお願いします。