2011年12月23日金曜日

11月の派遣メンバーから


 遅れましたが、11月の派遣チームの方々の感想を掲載します。今回のチームの特徴は、前に言った経験のあるかたがたほとんどです。

 今回の第三次支援物資と第六次派遣は平行して行われたので、私は両方に参加しました。3回目となる支援物資の量は、1,2回目を遥かに超えるものでした。三分の二位は衣類でしたが、あまりの多さに1台のトラックに積みきれるかどうか心配の声もありましたが、主の導きと知恵を授かり殆どの物資を積み込む事が出来ました。そして、皆様のお祈りに支えられ300kmの道のりを経て仙台の神学校へ到着しました。
 仙台を拠点として、さらに110km北へ、南三陸町の仮設住宅に物資を届けましたが、日程内では配りきれず、私だけさらに2日間の日程が加えられました。奥まった地の小規模の仮設では、なかなか行政の支援が届かない為、今回の物資は非常に喜ばれました。
仙台SBSを先頭にしてこの働きはなされていますが、必要な場所に必要な物を必要な量だけ届けるといった精神には共感すると共に頭が下がる思いです。
皆様からささげられた大量の物資、そして献金と祈りに支えられて、この働きが出来た事を感謝しお礼申し上げます。
 今回初めて芋煮会と石巻祈りの家での礼拝に集え、現地の方と交わりを持てた事も感謝でした.
(T教会K兄)


 11/19の芋煮会のための打ち合わせの時に仙台SBSの森谷師が言っていたことの一つは、「この芋煮会が次の支援につながるものとなるようにしましょう。バトンをつないでいくことができるように」ということだったと思います。最終日11/20の朝食の時には「特に南三陸町では『交流』が支援の中心になって来ています。ぜひ交流のためのアイディアをたくさん持ってきてください」「物資の支援も大切です。しかし、被災された方々にとっては、自分のことを知っていて会いに来てくれる人がいるということが大きな励ましになります」と教えて下さいました。11/22のSBSのブログには「17日(木)から20日(日)まで、『イザヤ58ネット』の皆さんが今年最後のボランティア活動に取り組まれました。春から継続的に私たちの支援活動を支えていただきました。特に背後にあって支援、祈り、協力してくださった『福音伝道教団』の諸教会の皆さんに感謝したいと思います。さらに新たな視点で継続を考えてくださることを期待します」と森谷師が書いています。被災地域や仮設住宅でのバーベキュー、芋煮会、森谷師の手作りコーヒー会、A兄による整体、ギデオン協会の方による聖書配布、石巻のベンソン師によって開かれたゴスペルコンサートなどは、そうした交流のアイディアなのだと思いました。(H教会Y兄)

4日間、お世話になりました。被災地の人たちはどの方も、明るくて、とても前向きと思い感動させられました。芋煮は最高においしかったです。(F教会K兄)

 前回のボランティアでは、心が変えられて、恐れることなくノンクリスチャンの人たちにも帰ってきてノンクリスチャンにボランティアの体験を伝えることができました。今回は、もっともっとたくさんの人に伝えることができることをねがっております。(O教会T兄)

 第二次派遣についで2回目の参加でした。前回6月に比べ石巻の商店街はきれいになり営業しておりますが、少し住宅地に入りますと片づけられた更地になった所もありますが、いまだに床下はきれいになっていましたが外回りは、津波に壊されたままのアパートが並び、住宅も殆ど住んでいませんでした。
まだまだ復興には時間がかかると思いました。そんな中で、私たちは2階建ての家の一階部分の柱や桟のヘドロ、ゴミなどをブラシで掃除して掃除機でホコリをとる作業をしました。
その家は、海水が天井よりわずか5センチぐらいまであふれてきたそうです。柱や壁に茶色にすじが残っていました。
 私たちイザヤ58ネットも長い目で支援を続ける必要があると感じました。
3日目は東松島の工業団地の響仮設住宅というところで芋煮会を行い、住宅の方たちと山形の芋煮を味わいました。(S教会I兄)


イザヤ代表鈴木より
 11月の派遣で今年の派遣は終了して、イザヤ58では、来年の準備をしております。
冒頭にあるように、今回派遣のメンバーには、以前に来た経験のある方々がいます。私たちイザヤでは派遣したチームは必ず、宿舎に戻ったら、寝る前にミィーティングで打ち合わせをして、朝は、デボーションを持ちます。そして、最後の夜に、支援活動で得た恵みを分かち合う時を持っています。
 それぞれが、支援活動で受けた感想や神様から教えられたことを分かち合います。その分かち合いでなされた南米から来た日系のT兄が語ってくれた証しを紹介します。
 「自分は、ご承知のように南米の日系人です。見た目は日本人と変わりはないのですが、日本人ではないので日本に来て言葉で苦労しました。今でもだいぶ以前よりは話せるけれど、思うようにしゃべれないことがあります。たとえば、イエス様のことをノンクリスチャンに証ししたいと思ってもうまく話せないことがあります。
 前回、6月にイザヤ58の支援ボランティアのチームに参加したくて、会社を休暇を取って支援活動をしました。前回は、ずっと外で復旧活動をしていて期間中暑い日で、だいぶ日に焼けました。帰ってから会社に出勤したら、職場の同僚たちから冷やかされました『いいな、休暇とって遊びにいって、だいぶ日に焼けたな・・・うらやましい』とみんなから言われました。僕は『違うよ、実はボランティア活動で石巻に行ってた』と言いました。そうしたら冷やかしていた同僚たちが一瞬シーンと黙ってしまいました。その後、自分が震災のボランティアに休暇を取って行ってたということが会社の噂になり、そのことがきっかけで、今度、会社でボランティアを石巻に派遣することになって、また今月、来る予定です。今まで、言葉がうまく話せないから、証しができないと思っていたけれど、言葉じゃないんだ、クリスチャンとしての行動が証しになるんだと教えられた・・・。証しは言葉だけじゃないんだ」。

 イザヤ58ネットは、小さな支援グループです。そして、それを支えてくれる支援教会は、北関東が中心の全国的に展開している教団ではありません。しかし、そのような小さな教会、小さな教団が外国の支援をあてにしないで、ここまでやれてきました。それは、みなさんの教会が派遣してくれた人や、みなさんの献げもののおかげです。

 12月29日にイザヤ58ネットは、今までの支援活動の評価と今後の方針を話し合います。代表として心に決めている来年の夢があります。

一つは、今まで支援地の様子をレターやブログで写真などを入れて報告してきましたが、来年はぜひ支援している皆さんの様子や、どのような教会から、物資が石巻や南三陸町に送られてきているか、被災者たちにもわかるようにできればと願っています。ぜひ、支援のための祈りの様子、教会からの励ましの様子を集めたいと願っています。ご理解とご協力をお願いします。物やお金ではなくパーソナルな人格と人格が出会う、双方向の支援関係を目指したいと思います。
ブログの最初にある、十字架と地球を中心として握手しているシンボルマークは、それを表しています。「私支援する人、あなた支援を受ける人」ではなく「このことを通してお互いに神様によって成長させていただく」活動がイザヤ58ネットのイザヤ書58章から来ている御言葉による根拠です。
 
 さて、もう一つ、きわめて野心的な夢があります。それは、福音伝道教団の教会に「芋煮会」を流行させたい。皆さん、あれは実にいいです。芋煮会は仙台方式(豚肉、じゃがいも、味噌仕立て)と山形方式(牛肉、里芋、醤油ベース)があるそうです。
山形の人は「仙台の芋煮は本物じゃない、豚汁だ・・・」。仙台の人は「そんなことはない、仙台の芋煮はうまい、山形に負けない・・・」とゆずりません。
 今回、東松島の仮設で山形蔵王バプテスト教会の支援活動の応援として芋煮会を手伝いました。最初、仙台SBSのM先生が味付けをした芋煮(山形式)でした(味付けは奥様には口をださせないそうです)。大鍋が空になったので、今度は蔵王の若い兄弟が作り始めました。具は同じなのですが味付けが微妙に違います。隠し味がそれぞれあって、それぞれにこだわりがあるようです。
豪快な芋煮会です。被災者に喜ばれてます。
 「これはいい・・・。若い人も高齢の人も一緒になれる・・・」と思いました。帰ってから教会でもしたいと思いました。
 芋煮会をやる日、曇り空で今にも雨がふりそうな日でした。仙台SBSのM先生に「先生、雨がふりそうな日ですが、芋煮会はできますかね」と不安そうに言ったところ、「大丈夫!山形の芋煮は芋が煮えるまでは絶対に雨は降らないことになっているから」と言った言葉が印象的でした。事実、雨が降ってきたのは、被災者に行き渡った後でした。
 


 




2011年12月15日木曜日

どの支援団体も

イザヤ58ネットでは、現在、来年の基本方針などを考えるために、今までの活動の評価をしようとしております。そのため、先日東京のお茶の水にあるOCC(お茶の水クリスチャンセンター)のオフィスがある、「東日本大震災支援キリスト者連絡会」(DRCfネット)の責任者に会いに行き、お互いの情報の交換をしてまいりました。
 大きな支援団体の今後、また関西の諸教会の震災に対する基本的な考え。たとえば、名古屋の支援グループの諸教会は、やがてくる「東海沖地震」への対応に対する備えなどを真剣に考えているそうです。
 今まで、どこの団体も、とにかく震災で被災している人を何とかしなければと、いわば無我夢中でやって多少の活動に伴う矛盾(例:物資支援の混乱、他団体との調整)などがとか、起きても、とにかくスピード感をもってやることが中心でありました。しかし、九ヶ月たって、そのようなことを整理し、より効果的に、また物資の支援から、心のケアも含めた被災者支援をすることに目を向けています。
 私たちイザヤ58ネットも12月の活動は、今までの活動を支援者たちからリサーチして、今後の活動に向けてすすんでいきたいと考えております。また現地の支援ネット仙台SBSなどとも緊密に連絡を取り合い、支援活動を息の長い活動にしていきたいと思っております。
 ブログの読者のみなさんも、ぜひメールなどで、私たちイザヤ58ネットの働きに対するお考えがあればお知らせください。
 

津波で一階がトンネルのようになっている石巻の被災地の倉庫、震災から9ヶ月たっても、この状態です

2011年12月2日金曜日

皆さんの小さな手の働きは、神と人に知られている。

このブログを立ち上げてどれくらいたったでしょうか。数日前、何気なく統計を調べたところ、カウント数は、ブログとしては人気タレントなどのブログにはほど遠いとは思いましたが、アメリカ、ドイツ、ロシア、オーストラリヤ、ブラジル、シンガポールからのアクセスがありました。ちょうど、そのようなことをイザヤ58ネットのスタッフに報告したところ、おりかえし、仲間からメールがきました。
そのスタッフの手元に巡り巡って一通のハガキが来たのです。そのハガキはシンガポール
からのハガキです。それを全文紹介したいと思います。実名は控えさせていただきイニシャルで紹介します。
<ハガキの原文>
前略
東日本大震災におきまして、私の郷里である宮城県南三陸町に数次に亘り支援活動にお越しいただき誠にありがとうございます。実家が志津川大森地区にいる母が「キリストさん(母が言っていました)にはとても助けられた」と聞き、そちら様のブログに辿り着き遅ればせながら御礼のご挨拶を書かせていただいた次第です。
震災から7か月余りたちました。9月帰省時は4月帰省時と比較してみると瓦礫はかなり片付けられましたし、店舗も少しずつ再開していたりそれなりに改善しているものの基本インフラ(道路、港湾他)の再整備は手つかずの状態です。
復興への道のりはまだ長そうですが、どうか温かい眼差しで見守り頂ければ幸いです。佛教徒故、神の御加護等言える立場にはありませんが、本当に感謝しております。晩秋の候 何卒ご自愛下さいませ。
平成23年10月29日 シンガポールより感謝をこめて (H・S氏)


 大森地区は、仙台SBSが事前に調査をして、地元の方々と連絡をとりコーディネートしてくださり、イザヤ58ネットが物資支援や、バーベキューなどに関わらせていただきました。
 多くの被災地でも「キリストさんに助けられた」という声があると聞きます。しかし、実際にこのようなお手紙をいただくことは、本当に感謝です。イザヤ58ネットを支えてくださる教会と皆様に感謝します。
  また南三陸町には、私たちだけでなく、様々な支援グループがそれぞれ仮設住宅の方々と関わりを持っています。私たちは、それらのグループとも連携をとりながら支援という小さな手のわざを進めていきましょう。
 「支援と宣教」は、今回の活動での私たちキリスト教会の大きなテーマでもありますが。
「宣教」「伝道」「証し」というと、言葉が伴う面がありますが、ペテロは「無言のふるまい」による異邦人である夫への証しすることをキリスト者の妻に求めております(第一ペテロ3:1~6)。
 信仰を援助の取引とするのではなく、息の長い無言の証しを通して、キリストの輝きが
周囲に広がることをまず求めていきたいと考えます。
 何よりも、大きな被災にあっている心が折れそうな被災者の傍らに立つ支援を続けていければと願っています。
 当初、大森地区は、津波で全壊した建物が少ない地域ということで、支援物資が届いていない地域でした。そこで、物資を届けることになりましたが、地域の皆さんは私たちの到着を待っていました。
7月には、大森地区の方々とバーベキューをしました。地区の集会場は津波でやられて
大勢集まる場所がないので、軒先を借りて地元の人と一緒にバーベキュウをしました。

 
11月の支援物資も届けることができました。

2011年11月26日土曜日

救援物資を届ける

仙台に到着しました。約3トンぐらいの物資です。ここでいったん一部物資を降ろして、乾燥機を4台積んで南三陸町に向かいました。
八ヶ月たってもまだ南三陸町は、この状態です。何もありません。
津波で鉄の塊となった自動車のガレキの山
南三陸波伝谷地区仮設住宅に乾燥機を降ろしています。山の斜面にある仮設住宅で、仮設の集会所に搬入しました。仮設の中で集会所しか畳はひいておりません。
神割崎キャンプ場仮設住宅の自治会副会長さんと、イザヤ58のメンバーです。とても喜んでくださいました。後日、乾燥機はガス工事屋さんが配管設置する予定です。
支援物資を降ろしているところです。今回、K兄のクレーン付きのトラックが大活躍でした。
大久保地区仮設住宅での支援物資を受け取る様子です。衣料などを並べて、必要なものを探している様子です。
衣料だけでなく、米、みそ、醤油、食料品、紙おむつなど日用品も各仮設住宅に必要に応じて配分して
支援しました。
波伝谷仮設住宅の集会所です

2011年11月24日木曜日

画像で見る報告(物資積み込み作業)

多くの物資が献げられました。今回は、その積み込みの様子です。
いかに大量かがわかるでしょう。
どうトラックに積むかを考えるのに苦労しました。

クレーンが大いに力になりました。これがなければ積んだり、降ろしたりできなかったでしょう。

16日の午後1時30分から積み込み(午前中館林でも積み込み)、終わったのは夜6時30分頃でした。


仙台で、乾燥機を運ぶために、支援物資の一部を降ろしました。朝、5時半に出発して、10時に仙台に到着し、乾燥機を積み、11時に南三陸町に向かいました。

2011年11月22日火曜日

石巻の支援活動

今回の報告は、18日(金)、19日(土)の石巻の支援活動ついての報告をします。
石巻の支援活動
 17日(木)に2チームに分かれて、南三陸町と石巻への活動をしましたが、引き続いて18日も物資を運ぶ南三陸チームと石巻のチームに分かれて活動しました。17日に、それぞれのチームが佐野から出発してたので、17日の夜、初めて拠点の仙台バプテスト神学校で会うということになりました。自分は南三陸に17日は石巻チームより遅く行って帰ってきたのですが、先に夕食を食べていた時に会うことになりました。当初、石巻チームのメンバーが、あまり話をせず黙々と夕食をとっていたのでとまどっていたのですが、翌日、自分が石巻への支援をしてわかりました。それは、実に骨の折れる疲れる支援活動で、初日、長旅してすぐ石巻で午後めいっぱい活動をしていたメンバーは、大変疲れていたことでした。
 南三陸と石巻の被災の状況は、まったく異なっています。それは、南三陸ではリアス式の海岸(海岸線が入り組み、山間の湾岸部)に津波が集中的に襲って来たため、集落が根こそぎ破壊され、そのすさまじさは、第二次世界大戦時にB-29によって日本の町が絨毯爆撃にやられた写真と似た光景です。車という車が金属の固まりになってしまっていたり、五階建ての鉄筋コンクリートのマンションが津波に襲われ、屋上に乗用車が乗っかっていたり、三階建ての消防署の屋上に10トントラックがのっかていたりと、すべてが破壊されていました。ですから、支援活動は、高台の避難所や現在は仮設住宅への物資支援と精神的なケアーが働きの中心でした。ガレキの撤去などは自衛隊など専門的な働きとなっています。
 一方、石巻は違います。港や海岸部の地域は同じように更地のような被害ですが、広範な平野部に津波が襲ってきて、平らな地域に津波がなめるように住宅を破壊しています。しかし、町の真ん中に流れる川の土手で津波が止まった地域などもあります。ですから、町の中に入ってきますと、普通の町並みがあり、大きな道路の沿線では、ファミレスや自動車デーラーの店舗や、その後ろに住宅地が広がって、どこに地震の影響があるのだろうかと当初は不思議な気がします。しかし、一歩、横道に入り、海側に近い地域に入りますと、様相は一変します。家という家は建っているけれど、一階部分は柱だけでかろうじて二階部分がその上にあるという家や、新しそうな家の一階部分は壁が全部ないとか、向こう側が見える大きな穴となっている建物ばかりです。工場の倉庫も、八ヶ月経っているいますが、壊れたままになっていたり、大手のスーパも建物はあるけれど、中は何も無い状態。そのような住宅地域に行きました。
 イザヤ58ネットが石巻での活動をしてた当初から、いろいろ支援の内容を指導してくれているサマリタンパースのスタッフのベンソン宣教師が支援先を案内し、内容を指示してくださっています。
 家の復旧活動ですが、4月からこの地域での活動は、津波で壊された家屋や庭などのガレキの撤去やヘドロ除去でした。それは大変な重労働です。床下をはがし、ヘドロをバケツに入れてくみ出す作業でした。
 今回は、床下のヘドロは除去されていて、一階の天井まで津波がきたため、天井の梁や窓枠にこびりついたヘドロやゴミをへらやブラシでとっていくという作業です。隣の家はそれらが終わり、アメリカから来た大工さんのボランティアは床や壁を張っています。ヘドロ除去→家屋内部の洗浄、消毒→床や壁の貼り替えと段階を踏んで一戸一戸時間がかかる修復作業です。私たちが天井や梁のヘドロを丁寧に除去したら、翌週は洗浄、消毒をする予定だそうです。
 まだまだ周囲の家屋は、一階が柱と壁しかない、かろうじて無事だった二階部分に住んでいる家々が並んでおり、また建てて一年しかたっていない一階建てのアパート群は、何も手が着いていず、ゴーストタウンの町の一部のようでした。
 一般のボランティアグループも来て、家屋の修理に取りかかるのですが、あまりにも時間のかかる作業のため、一度来て、修理を途中でやめて帰ってしまうグループもいて、ベンソン宣教師のグループが、忠実に丁寧に家屋の復旧活動をしている状態です。
 半日、脚立にのって天井の梁のヘドロをへらで削り取っていく作業や、トイレの床下をブラシで掃除していく作業は、南三陸町のような家屋がねこそぎ津波でない地域への支援活動とは違う支援活動であることを身をもって体験しました。
 次回は、石巻で忠実に支援と宣教活動をしているキリスト者の活動を報告します。今回は画像がありませんが、次回に掲載したいと思います。

2011年11月19日土曜日

11月17日からの支援活動

物資支援と一緒の支援活動
 今年、イザヤ58ネットの最後のチームによる支援活動が11月17日(木)~20日(日)まで行われております。現在、支援活動のチームの一員として、宿泊地の仙台バプテスト神学校からブログを発信しております。
 今回は、福音伝道伝道教団の18教会からいただいた、現地の必要物資のリストに基づいた物資を2。5トントラックに満載して、南三陸町と石巻の2チームで編成されて来ています。
 支援物資は、冬用の衣類、毛布、さまざまな生活日用品、米、また現地をからの要望があったミシンなどを運びました。
 前日の、16日(火)に物資集積拠点である佐野オリーブ教会で、荷物を積み込みました。その前に、毎回支援物資を運ぶときにお世話になっている館林教会のK兄、S兄などが、館林教会で集められた物資を積んで、佐野オリーブ教会に来てくださいました。比較的、建物のスペースの余裕のある佐野オリーブ教会でしたが、荷物の多さにびっくりして、「こんなに積載できるだろうか・・・」と思ったくらいの量です。午後1時すぎに、館林教会からトラックが到着したらさらに、ビックリで、トラックの半分がもう積まれているように見えるほどの物資でした。
 しかし、この道のプロであるK兄は、よく堤防や海の仮の堤防などに使用される、大きな頑丈な工事用布袋を幾つか用意し、そこに物資を入れて、ユンボと言われるトラックについているクレーンで釣り上げて載せていきました。
<クレーンがあり助かりました。よく積み込めたと思うくらいの量でした。> 
翌日、物資支援チームは、南三陸町の仮設に物資を運ぶ予定でしたが、仮設住宅の自治会長から支援の依頼があった衣類乾燥機が3台、仙台バプテスト神学校に届いていることの連絡があり、仙台によって、翌日支援地域に運ぶ予定の支援物資の一部をおろして、三台の乾燥機を
積み込むことになりました。
 今回、最初に物資を運ぶ予定の仮設住宅は<波伝谷>地区の仮設住宅で、皆さんが1時ごろ到着を待っているということで、朝、5時45分ごろ、夜明け前に佐野を南三陸町チームは出発しました。石巻チームは8時に、石巻に向かって出発しました。
<波伝谷(はでんや)仮設住宅について> 
トラックと仙台SBSの責任者で、今回の物資支援の被災者たちとのコーディネートをしてくれたM先生夫妻と一緒にワゴン車とトラックで波伝谷地区仮設住宅に向かいました。M先生の運転で、南三陸町の波伝谷に向かったのですが、まだガレキこそ片付けられているけれど、津波で破壊された堤防や港弯施設の間を縫うようにして、海岸から山に向かいました。正直いってトラックが通れるだろうかという狭いくねくねとした急な山道を登って、こんな所に人が住んでいるのだろうかという山林を縫って山道を登り切ったところに、20戸ほどの仮設住宅がありました。
 波伝谷仮設住宅は海が下に見える、海岸沿いの山の上に、山林を切り開き、山の斜面にへばりつくようにして建てられた20戸ほどの小規模な仮設住宅でした。向かう途中、「波伝谷って、ずいぶん変わった呼び方の地名だね」とメンバーと話あっていましたが、後で仮設のお年寄りから教えてくださったのは、この地区は海岸からすぐ、山の谷間がある地区で、地元の言い伝えでは何百年前の昔、大津波がやってきて、この山の谷間で波が来たというところから「波伝谷(はでんや)」と呼ばれている。この南三陸では、山間部なのに「大船(おおぶね)」という地名があったり(波で船が流れ着いた)、切蘇木(きりそぎ)といって波で切り取られた地という津波に由来する地名があるということだそうです。それだけの津波の歴史があるということだとのことです。
 この波伝谷の仮設住宅の人は、みんな漁師の家庭で、海岸沿いに住んでいた人たちの仮設ということでした。今回の津波から助かったこの地区人たちはみんな浜に近いところに住んでいた漁師たちの家庭ばかりだったそうです。津波で亡くなった人たちは、海岸から離れて住んでいた人たちで「まさか、ここまで来ないだろう」といって逃げ遅れた人たちばかりだったそうです。
仮設住宅で訪問で知った課題
(乾燥機を積み降ろしているところ)
 波伝谷で支援物資と乾燥機一台を降ろして、神割崎キャンプ場仮設住宅、津の宮地区仮設住宅、切曾木地区仮設住宅にそれぞれ一台づつの乾燥機と支援物資を届けました。
 他の地区に物資を波伝谷の自治会長の案内で、届ける間、残っているメンバーで、仮設の人たちと「お茶っこの会」というお茶を飲みながら、傾聴活動をしました。そこでわかった仮設住宅のことは、この波伝谷の仮設にいる人たちは、全員、仮設住宅の抽選に外れた人たちばかりだそうです。そこで山林を持っている地区のある人が、自分の土地に仮設住宅を建てることをお願いして、同じ地区の人たちばかりを集めて住んでいるそうです。ですから、遠い親戚、昔から知っている人たちばかりで、雰囲気はとても明るく、お互いを助ける姿勢が全体にあるようでした。
 お茶を飲みながら、お話を聞いている中で、新たな支援の課題を知ることができました。一つは、仮設住宅の寒さ対策は、想像以上に厳しいということです。波伝谷の仮設はお年寄りばかりです。その仮設住宅の床は、薄いクロスが張ってあるだけです。仮設の集会所には畳敷きですが、各家庭の部屋は、畳はないのです。底冷えがして、かといって、石油ストーブは狭い部屋では、寝る時は危ないし、エアコンは電気代がとてもかかるし・・・といったぐあいです。今回、M先生は、布団と床の間にひく、銀色の保温シートを各戸分を運んできて、大変喜ばれていました。
みなさん、想像してみてください。病院や学校のPタイルの床に 、クロスシートを張ってあるところに布団で寝る状態を・・・。年寄りにはこたえます。
 もう一つの課題は「在宅被災者」の問題です。石巻の支援でも同じですが(石巻の支援活動は次回ブログで報告します)、避難所や仮設住宅には、公的支援がいくし、支援団体も支援しますが、波伝谷の仮設住宅の方が「私たちは、寒いとか不便だとあるけれど、同じ地区の在宅の被災者(家は壊れているけれど、何とか住める人)、また民間のアパートが仮設住宅のように借りて被災者が住んでいる人たちは、一切の支援がないのが現状だ・・・そういう人たちは、住んでいる場所もバラバラで、本当に大変だ・・・」と聞きました。今後は、仮設住宅の人の紹介で、そのような方々に支援するルートを開拓する必要があります。そのためにも、そのような情報を教えてくださる仮設住宅の方々への傾聴活動は、とても大切です。
 次回は、石巻の南三陸町とは違った被災状況と支援活動について報告したいと思います。
物資の配布の様子です。自分の必要なものを探している仮設住宅の方々

2011年11月15日火曜日

第二回「南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク」会議

11月14日(火)に8月に結成された「南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク」の第二回の会議が開催されました。場所は、普段、私たちイザヤ58ネットの支援チームが宿泊場所にしている仙台バプテスト神学校で午後1:00から4:00までの大変密度の濃い会議でした。日帰りで出席してきました。
 第一回の会議は、8月に南三陸町にある、避難所にもなっていたホテルで開催されました。その時は、80名くらいの人数で、様々な団体や支援活動をしている教会の代表者が参加していました。一度でも南三陸に支援活動をしたグループも参加してたので、主な大きな団体の活動報告とネットワークを結成する主旨説明で終わって、踏み込んだ話はできませんでした。
 しかし、今回は、30名くらいの人数で、出席した団体も絞られていました。理由は、幾つかあり、他の福島での支援会議と日程が重なったり、また、支援の働きの力点を他に移したグループがあったこと、さらに、支援活動の資金が底をついて、働きを休止したグループなどがあったりしたために、今回は継続的に南三陸町に支援活動をしているグループに絞られた感じです。

仮設住宅への支援について 
 それぞれの活動報告が、具体的な場所などを挙げて報告がなされました。おもしろいことに、それぞれが重点的に支援活動をしている仮設住宅が重ならないで、お互いの活動に気を使ってうまくすみ分けができているようでした。また被災者の個人名などがでてきて、それぞれが被災者たちとの個人的関係が築かれはじめてきて、証しのチャンスが広がっていることです。
 この支援ネットワークの特徴は、震災当初から南三陸町に入って支援活動をしていた代表者の仙台のN牧師が行政とパイプができていることです。行政がどのような支援を私たちに求めているのかを常に訪問して、率直な意見交換をしていることです。
 そのような中で、仮設住宅への支援活動で浮かんできた課題が「支援の均等化」という問題です。企業などが支援を送ってくるのですが、ある意味で事前情報をしっかりつかんでいないこと、単に企業イメージをアップさせるために、ドーンと物資を送ってきて、「もう、この仮設住宅には物資はいりません」と訴える仮設の自治会長がいたりする反面、何も支援がこない小さな仮設住宅、あるいは、かなり山間のめだたない場所にある仮設住宅などがあり、「私たちを見放さないでね・・・」と訴える仮設の代表の声などがあることです。また一般の大きな企業や支援団体の支援物資が、仙台のリサイクルショップに箱ごと売られているという報告もありました。つまり、必要なものを必要な量を支援するという事前調査をしないで、物資を送ってきても、「今必要なのは物よりも現金だ」という被災者もいるということです。
 今回、そのような一般の支援活動で見られる問題が起きないように、お互いの支援活動が重複しないように、緊密な情報交換のネットワークが必要とされています。
行政と被災者、地域コミニティーのパイプ役 
 また、行政となぜ緊密に連絡を取り合うのかというと、実は、南三陸町だけでなく、三陸海岸の町の行政の問題は、町の職員たちも被災者だということです。被災者は、町の行政に当然のように支援サービスを求めてきます。しかし、行政組織が壊滅して、立て直ししながら被災者対策をしていく行政は必ずしも行き届いた行政サービスができない面もあります。さらに大きな問題は、それぞれの行政分野の専門担当だった人たちが、被災して死んでしまったりして専門知識に乏しい人が担当することにもなっているそうです。たとえば、それまで下水道課の職員が、福祉関係の担当にならざるおえないという事態があるわけです。
 キリスト者ネットワークでは、そのような行政の側にも大きな悩みをかかえ、個人的にも大きなストレスを抱えている職員が少なくない現状の中で、行政の側の必要、また被災者の側の必要などを聞きながら、キリスト者として平和の絆の構築を目指していくためです。次回の会議には、被災者の代表や行政の代表も出席してもらうことを目指しているそうです。

 さらに、中には、私たちイザヤ58の支援活動に「バーベキュー大会」「芋煮会」などの活動を聞いて「なんだ、支援といっても、食べたりする活動じゃないか(笑)」と思う方があるいはいるかもしれません。これらのイベントの企画の主旨は、被災地では、それまでの地域コミニティーが壊れてしまっている問題もあるからです。支援物資の配給の問題で、隣近所の関係、あるいは町内会が壊れてしまったり、集まる場所がなくなったりしています。
 以前に大森地区で支援とバーベキュー大会をしたのは、地域の区長が「昔のような、隣近所が和気わいあいとした関係に戻したい・・・」という願いから、私たち支援グループと被災者の親睦というより、被災者同士のつながりの再構築という意味で企画しました。
 また、仮設住宅は、抽選で場所が決まるため、いままでの隣近所の人ではなく、それぞれが違う地域から来た人たちが集まっているのです。お互いが知らなかった人たちが、同じ集落で生活をする、当然、孤独死などが問題になります。私たちキリスト者として支援は、そのようなパイプ役になることではないかと思います。
 今回、被災者の協力してくれる方が、南三陸町の全部の仮設住宅のある場所をグーグルマップで掲載した地図を作成してくれて、私たちネットワークに提供してくれました。
 大きな仮設住宅、小さな15世帯ほどの仮設住宅、それらすべてがわかる資料をキリスト者ネットワークは持っています。その地図を見ながら、イザヤ58ネットの活動も、きめ細かい働きのお手伝いができると思います。
イザヤ58ネットを支援してくださっている方々のすごさ 
 今回「キリスト者ネットワーク」の二回目の会議に出席して感じたことは、「イザヤ58ネットを支援してくださっている方々のすごさ」ということです。前にも述べましたが、第一回のネットワーク会議に比べて、参加グループが絞られた理由の一つに、支援活動の資金が底をついて休止したグループもあります。もちろん外国からの資金援助のパイプの大きい支援団体や教会もあるのですが、イザヤ58ネットという関東に限られた教団の教会が中心になって、物資を三回も送り、また、4月からほぼ毎月、支援チームを送ることができるのは、この働きのために支援してくださっている諸教会の信徒の力が本当に大きいということを、会議に出席して痛感しました。本当にありがとうございます。
 日赤や大きなNGOへの義援金という援助の形もありますが、イザヤ58ネットという小さなグループへ献金や物資支援してくださった方々に確実に言えることは、みなさんが献げてくれた物資や献金がいきつく場所がどこなのか、具体的にわかることではないかと思います。今回17日に持って行く支援物資は、南三陸町の波伝谷(はでんや)という地区の仮設住宅で、まだ支援が行き届いていない山間の15世帯ほどの仮設住宅とできたら他に二カ所の仮設に物資を送りたいと願っています。また物資支援のための献金から乾燥機を二カ所の仮設住宅に設置するための購入資金として使う予定です。設置が終わったらブログで報告したいと思っております。

2011年11月8日火曜日

11月17日からの支援

 10月29日に開催されたイザヤ58ネット特別集会には、多くの方々が出席されたことを主催者として感謝しております。
 その集会で受けた様々な霊的な思いを心に留めて、私たちは冬を迎えようとしている被災地の支援に目を転じております。
 今回は11月17日~20日の予定で、冬の支援物資を南三陸の幾つかの仮設住宅に持って行きます。避難所時代もそうであったのですが、どうしても目につく避難所(テレビなどで放映された避難所など)や規模の大きな避難所などには物資は届きやすいのですが、小さな避難所は支援の過疎状態が生じてきていました。同じように仮設住宅にもその現実は変わりません。
 今回、私たちは南三陸の幾つかの支援が十分に届いていない山間の小さな仮設住宅地域に物資を届けます。私たちが今後のことで心配していることは、震災で津波などで直接的に亡くなった犠牲者の2倍~3倍の方が被災後の避難生活の中で、病疾患や自殺などで亡くなるという統計的な事実です。そのことをいつも念頭において、今後の支援活動をしていきたいと願っております。
 具体的支援は今回の支援で今年の活動は、終了しますが、イザヤ58ネットのスタッフは、できるだけ現地に赴いて、来年1月以降の活動のため、ほかの支援グループとの情報交換や、ネットワークづくりに努めていきたいと考えております。
 今、他の支援組織と連携を考えていることは、ある小さな仮設住宅の自治会長からの要請で、これから冬になって、被災地では洗濯物が天候の関係で外で乾かせないことが多いので、乾燥機をなんとかしてもらえないかという要請がきております。
 仮設住宅の集会所に設置して、いくらかの使用料金をとって、その貯めたお金は、仮設住宅の自治活動に使えればという考えだそうです。
 今、コインランドリーなどにあるような乾燥機を業者に問い合わせております。幾つかの支援組織と費用を出し合い、支援できないか検討しております。イザヤ58ネットの物資支援のための指定献金から、その費用の一部をイザヤ58ネットで負担することを検討しております。仮設住宅での最初の冬を過ごす被災者、なんとか自分の家があるが、依然と復旧が必要な家屋、まだまだ支援の必要性は、物心両面で必要と思われます。
 しかし、同時に、キリスト教団体、教会の支援がキリストを証しする働きとして、今までにない東北の人たちの心が開かれる反応が見られます。息の長い支援と、キリストの愛を伝える宣教の活動が神様の知恵をいただきながら、すすめていければと願っております。

2011年11月3日木曜日

10月29日イザヤ特別集会「東日本大震災・・・あれから八ヶ月」

 10月29日(土)、秋晴れの中、群馬県太田市の太田キリスト教会で、「東日本大震災・・・あれから八ヶ月」というイザヤ58ネット特別集会がもたれました。特別講師として福島第一原発から数キロしか離れていない場所に教会があり、あの3月11日の震災による原発事故により、すべての教会員含め七万人の住民がすべての家財も家もおいて、津波と放射能被害から避難せざるおえなかった人たちの教会、福島第一バプテストの主管牧師の佐藤彰先生をお迎えして、震災を境に一瞬にして様相が一変し、避難に次ぐ避難を教会員を連れ、まさに出エジプトのイスラエルの民が荒野をさまよったように、教会ごと避難所から避難所に転々とした「流浪する教会」と呼ばれた群れの苦悩とその中で受けた神様からの教え、恵みをお話していただきました。出席者は、主催側の予想をはるかに上回り170名の出席者でした。
「この集会の主旨」
 今回の集会は5月頃から、イザヤ58ネットで企画が検討されていました。それは、震災直後は生々しいニュースが私たちの元に入ってくる。しかし、時が経つにつれて関心や意識が風化してしまうのではないか。さらに、祈りの手を挙げ続け、支援を続けることの大切さを訴えようと考えられていたものでした。
 私たちイザヤ58ネットの支援は、主に南三陸町、石巻が中心となっています。宮城や岩手と並んで福島も震災で大きな被害を受けております。私たちは、それらの地域を忘れてはなりませんが、残念ながら、私たちの組織の規模や支援体制では、手が届かないのが現状です。しかし、私たちは原発被害にあった人たち、震災にあった福島の地域の癒しを岩手、宮城とともに祈り続けていきたいと思います。
「佐藤先生のお話」 
 佐藤先生は、教会が原発が建設される前からあった教会、その教会が震災に遭うまで、着実に地域に根ざし、様々な教会の活動があり、豊かな交わりの共同体が形成されていった様子を、震災の日の二時間前には子供たちの特別集会の様子なども映しだされたスライドを交えながらお話をされ、そして一転して、震災直後の津波に襲われた地域や、2008年に建設された会堂の中が震災でメチャメチャになり、そこから60数名の教会員と共に転々と避難生活をしていった中で、この事態をどう聖書を通して神様が語りかけたかを順々に聖書の言葉を示しながら語っていただきました。
集会を企画して 
 今回、イザヤ58ネットの活動の報告も予定しておりましたが、十分に報告の時が時間的にもてませんでしたが、多くの人が、震災から八ヶ月が経過した現在も、被災地への関心、支援の継続的な実施について強い関心を持っておられることが伝わり、主催者側としては大きな励ましとなりました。
 またイザヤ58ネットの活動に関わった牧師たちには、佐藤先生の危機的な状況の中で、群れを支えていく牧会者としての霊的姿勢に深く教えられました。
イザヤ58ネットの今後 
 今後のイザヤ58ネットの活動予定は、11月17日(木)~20日(日)に南三陸の仮設住宅への支援物資を送りながら被災者への傾聴活動、地域コミニティー再建の一助としての仮設住宅におられる方の交わりの形成をお手伝いします。また石巻の被災住宅の再建の支援活動を予定しております。
 今回の支援チームが今年最後の派遣となります。しかし、「南三陸町を支援するキリスト者ネットワーク」が建ち上がり、私たちも、そのネットワークに加入しましたので、そのネットワークの会議などに出席し、来年以降の活動について模索検討したいと思います。今後とも、イザヤ58ネットの働きのため祈りと具体的支援をお願いします。

2011年10月19日水曜日

第五次派遣報告

 ブログを久しぶりにアップしました。今回は、10月の第五次派遣チームの方々の報告を掲載します。

今回のボランティア活動は思い出に残りました。ありがとうございました。(Y.K兄 O教会)

今回の第5次派遣の一員に、加えられた事を主に感謝します。私は、全日、石巻のNさん宅に遣わされました。ベンソン師のご指導のもとでの作業でしたが、とても、丁寧で細かい所や、見えない部分にも気を配っての指導で感動しました。壁や床はがしが終わり、骨組みだけになった家の中の、洗浄、消毒を、Nさんの家族三人と一緒にすることが出来ました。作業終了後には、「きれいになりました。ありがとうございました。」と感謝され、御家族の表情も明るくなり、私たちも元気をいただいた気がしました。皆様の献金や御祈りに支えられ、その働きに参加できた事を、感謝しております。(K.K兄 Tキリスト教会)

 今回、参加してみて皆でチームになって協力し助け合い、励ましあい、希望を持って先に進むことの大切さを知り、その中で神様の愛を感じることが出来ました。仙台SBSの森谷先生のお話のコロサイ4章5,6節のみことばがとても印象的でした。(A.O姉 Fキリスト教会)

あの地震から約7ヶ月、石巻市でのボランティア活動、被災された方々との交わりの中での一言。5月頃に見た、被災された方々の落ち込んだあの姿はなかった。復旧が少しずつ進み、一人一人の笑顔が戻ってきているのが、第一印象でした。ボランティア活動もその都度、場所、ご奉仕、内容も異なっていますが、家族それぞれのまなざしが伺われ、家屋、その他の復旧にも、私たちと一緒に行動し、さらに近所の人達の協力や団結力をうかがうことができました。時も経ち、ボランティア活動もまばらになる中、イザヤ58ネットが、被災地全体の一部かも知れませんが、復興に少しでも、お役にたっていることは感謝です。引き続きご奉仕が守られ、続けられる様お祈りしております。今回御奉仕して下さった9人、スタッフの上に、健康が守られる様、お祈りしています。(K.H兄 T教会)

教会の方々の祈りと5月に参加した主人の後押しがあり、ひとりでは何も出来ないけどイザヤ58ネットを通じて、今回の9名のメンバーの中に加えていただけたことを感謝しています。特に印象に残ったことは、東北の方々のしなやかな強さと芯からの温かさです。1日分の小さな活動を終えて、私たちの車が現場を去る時、そこでいつまでも手を振り続けて下さる姿がありました。私もこの方々のために、祈り続けるものでありたいと思わされました。(M.S姉 S.O教会)

休暇をいただき、参加しました。一つ一つの地道な作業、又、人とのつながりを丁寧にしておられる牧師、宣教師の方々や迎え入れてくださった被災地の方々の温かさに触れ、受けることの多い4日間、宮城がぐっと近くなった旅でした。(Y.H宣教師 F教会)

南三陸町でのイモ煮会は80名くらい集まったようです。表面は皆さん明るく見えますが、最後に残った人たちと南三陸町の航空写真の前で、町並みが美しくあった時の写真と、被災後の写真を見比べながら、「なつかしいね。全部なくなってしまったものね。」との言葉に、痛みと重さを感じました。そのような中でたくましく生きている姿に、こちらが励まされるようでした。石巻市では、返ってその一軒の家の方の所に二日間関われたので、掃除の活動の合間にもったお茶の時間に、当時の生々しい証言を伺うことができました。そして何よりも、「毎日こうして来てくれて、私たちのことを覚えていて下さることがどれほど生きていく希望になるかわからない。本当にありがたい。」との言葉に、人間は全てを失ったようでも、生きていく希望と力がもてるのだなと感じました。やがてその人たちに真の希望である神の愛が届くことを祈るばかりです。(H.Y牧師 S教会) 

最終日に、7月に続いて南三陸町へとやって来ました。ボランティアを受け入れてくださっている、仙台バプテスト神学校の森谷先生が山形の出身ということで、南三陸町の皆様に芋煮をごちそうしたいと、準備をして出かけたのでした。南三陸町の港周辺は、7月に来た時と変わらない、いやガレキの山が更に高く積み上げられているためか、以前にも増しての殺風景。しかしガレキの中で営業を開始した仮設のガソリンスタンドに立ち寄り、復興に向けてのパワーを感じました。      
さて、南三陸町の港から、しばらく進むと、小高い山があり、その中腹にある大上坊の集会所が、芋煮会の舞台となりました。地域の方々が20名ほど集いました。私は事もあろうに、芋煮の鍋を準備する時に重い物を持ち上げて、ギックリ腰になってしまいました。そのために私は、作業班から脱落してしまうのでした。ところが、集まっている方々が、助けの手を差し伸べてくださったのです。家に帰って腰のバンドを持ってきてくださったり、ギックリ腰経験者から体操を教えて頂いたり…この時の皆さんは、とっても輝いて見えました。きっと、助けられることよりも、助けることで、生き生きと輝いたのではないかと思います。
 作業はできなかった私ですが、芋煮を皆さんといただき、持っていったウクレレを弾きました。姉妹方の賛美歌に合わせて、メンバーの一人がクリスチャン・フラを披露してくれました。また皆さんと童謡を歌うと、涙を流している方々がおられました。助け合い、励まし合うことの温かさを教えられたギックリ腰も、たまには良いなと感じています。
(K.Y牧師 Kキリスト教会)


第五次派遣活動を振り返って(全体報告)イザヤ58ネットスタッフ N牧師

今回の活動は、9名のメンバー(男性6名、女性3名)でした。いつも神様の見事なチーム作りに驚かされますが、それぞれの持ち味を発揮しての活動がなされました。今回は、事前の打ち合わせの中で、チームを現地で二つに分けての活動でした。一つの働きは、これまでともに活動をさせていただきました石巻におけるベンソン宣教師と阿部兄との協力。もう一つが南三陸における森谷先生の働きとの協力の中で行われました。
石巻市では家屋の改築準備前の洗浄や消毒、およびその前段階のヘドロ掃除などの活動、南三陸ではいも煮会を通しての、仮設住宅のコミュニティーの方々との交わりを行ってまいりました。少し長くなりますが、日を追って、具体的な活動についてご報告いたします。

10月3日(月)足利―東松島市野蒜・東名―仙台バプテスト神学校
 9時過ぎに埼玉、栃木、群馬、東京よりメンバーが集まりました。万全を期して、栗原光兄がその賜物を生かして、出発前に車の最終チェックをしてくださり、出発いたしました。この日は移動日でしたが、次の日からのボランティア活動および被災地を見ておく目的で、東松島市の野蒜地区・東名地区を視察してから神学校に向かいました。
 東松島、野蒜はイザヤの活動が始まった時に視察隊三名がボランティア活動をした所でもあり、またその後も別のチームが訪れて祈りをささげた場所です。いまだ仙石線の電車が止まったままの場所を過ぎて、野蒜地区に入ると、今なお、その時の状況をとどめた家々とともに、段々と土台を残すのみの場所が広がりつつありました。重機が忙しく活動している様子を見るにつけ、ゆっくりですが、ここも変わりつつあることを見て取ることができます。4月に関わらせていただいたお宅も改築のための作業に入っており、この場所が主に用いられることを(そのお宅の娘さん夫婦は牧師をしておられ、神様の働きのためのこの家が用いられることを祈っておられます)引き続き祈らせていただきたいと思わされました。
 その後、一行は、松島を横目に神学校に戻りました。S姉を中心にY.H師、O姉の女性三名が中心となって夕食の支度をしてくださいました。四日間の活動中、女性陣が食事の労を取ってくださり、忙しい中、豊かな食卓を彩ってくださり感謝でした。この日の食卓には、森谷先生の奥様も加わってくださりました。ボランティア期間中、森谷先生ご夫妻との食事の交わりは、笑いあり、そして何より、被災地で関わりを持ち続けておられるご夫妻からの話を伺える幸いな時間でした。
 夜にはディーン・ベンソン宣教師(ルーテル同胞宣教師)が来られ、次の日の打ち合わせを行いました。ベンソン宣教師は震災後、石巻を中心に関わりを持ち続けておられます。第一次派遣メンバーが訪れた新館地区に一区切りをつけて、今は浦屋敷地区への働きが拡げられています。この働きの広がりの背景には、サマリタンズパースが準備した生活ボックス(包丁など1万円相当の最低限必要な生活用品が入った箱)を新館で配布した際、その地区からいらした方々と関わりが生まれ、この地区の五軒のお宅に関わっていました。
ベンソン先生の働きは、丁寧かつ確実な仕事です。何より先生の人柄や笑顔が地域の人々のよき証となっています。もちろん今は、直接、イエス様について語るという段階ではありませんが、主にある愛の実践を通して人々の心が開かれており、やがて福音の種がまかれ、実を結ぶ時が近づいていることを感じました。メンバーの一人一人が明日からの主にある働きに期待して、10時過ぎに就寝しました。

10月4日(火)神学校―石巻(裏屋敷)―神学校
 6時半より朝の祈り会が行われ、小澤師よりマルコ6章30-46節が開かれました。イエス様のご配慮、愛をもう一度覚えつつ、一人一人の整えの時となりました。朝食をあわただしく済ませて、片付けと準備をして7時30分に石巻へ出発しました。この日はチーム全員で石巻に向けて出発しました。多少の渋滞に巻き込まれましたが、予定通り9時過ぎに石巻に到着しました。浦屋敷は新館よりも幾分海岸に近い事もあり、被害の大きさとともに、今後、その場所が居住区になるかどうかという不安や複雑な思いの中にある場所でした。それでも、私たちに今できることは目の前にいる一人一人の住まいを精一杯綺麗して、改築の準備をさせていただくことであると信じて活動しました。
 チームは、①O師・K兄、②H兄・K兄・H師、③Y師・O姉・S姉・私の三チームに分かれて活動しました。簡単にその内容をご紹介すると、チーム①は最も初期の段階と言えると思いますが、家の壁や床を取り壊して、柱などをむき出しにする埃まみれになりながら大仕事。アメリカからのロジャー先生、ボブ兄とともに働きました。チーム②はH兄、K兄の経験や技術が生かされる、まさに洗浄前の最終的な準備としての様々な働きがなされました。チーム③は、壁などが取り払われた後の段階にあるお宅で、奥に入ったヘドロかきや、柱などにこびりついているヘドロをおとす作業に当たりました。それぞれの活動とともに、Mさん、Nさん、Kさん家族とのお茶の合間の語らいの時、そして震災時、震災後の苦労や悲しみ、色々なことが語られました。それらは、なかなか聞くことのできない話で、現実を知らされた時でした。
Kさんが、「最近は涙もかれてしまって、今は話しながらも涙が出なくなった」と笑って語っておられましたが、ここまでどれほど涙の中を過ごされたのかということを思わされました。
 活動の合間に、祈りの家のA兄が支援物資の配達で来られました。久しぶりの再会を喜びつつ、その誠実な働きに頭が下がります。これまで石巻での活動にはいつもA兄と一緒にチームは活動してまいりましたが、今はベンソン宣教師が改築準備のための働きを前線で行い、A兄はその後方に回って、支援物資を新館や浦屋敷地区にお配りする後方支援の責任を担っているそうです。まさに両輪のようにお二人が手を取り合って活動している姿がそこにありました。
 先ほど述べましたように、ベンソン宣教師は浦屋敷地区において、五軒のお宅と関わりを持っておられますが、ボランティアがそれほど多くはない中で、一度に五軒に関わることができず、毎日、バランスを考えながら、その時、その時に与えられるボランティアを派遣して活動を続けています。必要は沢山あり、求めもたくさんあります。それは先生たちの働きが、これらの地区でますます信頼されてきている現実であります。そのような働きに私たち小さなグループが関わることできることは喜びです。そして、また先生たちも私たちイザヤ58ネットをとても信頼して下さっています。それは、これまでイザヤ58ネットを通してボランティアに関わってくださった方々の誠実な働きとともに、それらのメンバーを祈り、献金などで支えて下さっている皆様との協力があってのことであると思わされています。
 さて、いつものように、4時には活動を終えて、それぞれ帰途に就きました。ここでは、最後に、ボランティアと関係するお宅の方々が一度に会して祈って終わります。それはとても感動を覚える時でした。アーメンと祈って涙を流す関係者の方々の姿に、確かに神様はこの地を大きく揺り動かそうとしておられると感じました。帰りに、少し寄り道をして、第一次派遣の時から関わりのあるNさん宅の様子を見てきました。すでに石膏ボードがベンソン宣教師を中心にサマリタンズパースの援助や関係の大工さんのボランティアによって完成し、今はご夫妻が自分たちでペンキ塗りをしているとのことでした。ご主人は短期の仕事が与えられ、その時は、まだ帰宅しておられずお会いできませんでしたが、一歩一歩の実を見させていただきました。今回関わったお宅もやがて、ここと同じようになることを祈りつつ、関わって行きたいと願います。兵藤師にN宅で祝福を祈って頂き、N宅を後にしました。
 夕食を済ませて、七時半から森谷先生と打ち合わせを行いました。特に次の日の南三陸町でのいも煮会についての打ち合わせとまたメンバーとの顔合わせを行いました。明日は二チームに分かれて南三陸と石巻で活動を行うことを確認して、就寝しました。

10月5日 ①神学校―南三陸・中瀬町―神学校  ②神学校―石巻―神学校
 六時半からの朝の祈りは、兵藤師がイザヤ30:19-21をお開きくださり、選択するということを黙想しつつ、整えの時を持ちました。いつもように慌ただしく朝食を済ませ、片付け、出発の準備をして、七時半に南三陸へ①Y師、S姉、O姉、K兄、H師、N牧師、同じく七時半に石巻へ②O師、H兄、K兄がそれぞれ出発しました。石巻では、N宅において、最終的な洗浄の作業に三人が加わり、洗浄と消毒の作業を終えることができました。さらに、この日は、その地域の必要な物資や働きのために、皆さまから捧げていただいた献金の一部をベンソン師、A兄に託すことができました。これらがこの地域の復興と地域の人々の必要のために用いられることを祈っております。
 チーム①も南三陸町へ大きな渋滞もなく、10時に到着することができました。女性陣を中心に現地の方々や他のボラティア団体と協力しておにぎりの準備がなされ、森谷先生を中心に男性陣が山形のいも煮の準備をいたしました(140食程度を準備)。十二時を過ぎると続々と仮設住宅に住んでおられる方々が集まり80人近い方々が集まりました。この中瀬地区の方々は、四つの仮設住宅(1-4基)に分かれており、事前にまとめ役の方々を通して回覧で今回のことが伝えられていました。十二時半過ぎからいも煮とおにぎりを通しての交わりの時となりました。特に、S姉、O姉、H師、Y師、K兄、それぞれが積極的に輪の中に入って、話しかけ、良き語らいの時を持たせていただきました。かつての南三陸の美しい大きな写真と現状の写真を見比べながら、震災時の出来事、今の心境などをお聞きすることができました。
特に、この地域においてはある地域には居住の許可が下りたそうです。しかし、実際、津波がその場所すら襲った現実を受けて、本当に安全なのかという心配があるようです。方針が決まらず悩む地域の方々(石巻)もおれれば、居住区としての認可を受けても悩みが絶えない住民の方々もおられるという複雑な事情を垣間見たような気がします。またまとめ役の方々から避難所での現実、そこには人間的な欲や、利己主義といった報道されない影の部分の現実などがあったことを伺い、いかに被災者たちが傷つき、困難を通しての現在があるのかを考えさせられた時でした。
 その後、いも煮会に来ることができなかった少し離れた仮設の方々にいも煮を届け、片付けを終えて、別れを惜しみながら、予定時間より少し遅くなりましたが帰途に就きました。
 改めて、この南三陸においては森谷先生たちが真摯な取り組みをされていることを目の当たりにします。何度も、まとめ役の方々から森谷先生たちに良くしていただいているという言葉を聞きました。それは本当に地域の信頼を得ている姿でした。ここでも、このような形で私たち小さなグループが関わらせていただいている恵みを感謝しました。
 石巻、南三陸、それぞれのチームが七時前に到着して、森谷先生ご夫妻を交えての最後の夕食の時を楽しく持たせていただきました。その後、ベンソン先生も寄ってくださり、楽しい語らいの時間を持つことができました。

10月6日(木) ①神学校―南三陸・大上坊―蔵王PA-足利 ②神学校―石巻―蔵王PA-足利
 いつもの六時半からのディボーションはH兄がご自身の救いの証とともにマタイ11:28,29、Iコリント13:13を開いてくださり、主の前に整えの時を持って、朝食と出発の準備を整えてそれぞれの場所に遣わされました。南三陸チームはO師、S姉、H師、O姉がいも煮での働きでした。特に、O師の奏楽、S姉とH師のコーラス、O姉のフラゴスペルなどを通して、大上坊の仮設住宅で活動をして参りました。
 石巻チームはH兄・K兄の最強コンビが引き続き賜物を用いての改築準備のための働きをW宅で行いました。先にも述べましたように、一度にすべての家に関わることができず、ベンソン先生がバランスを考えながらお宅をかえながらのボランティア活動をしております。もう一チームは、Y師、K兄、Nが4日に続いてK宅にて、柱や奥に詰まったヘドロのかきだしを行いました。安田師はペンキ塗りの経験を生かしての養生作業(洗浄時に水がかからないようにするためのビニール張り)、栗原雄兄は、忠実にブラシを用いてのヘドロ落としの作業をしました。K宅では毎回沢山のおもてなしを用意してくださり、作業の合間の話の時間は、作業時間より長くなっているのでは?!と思うほどでしたが、その時間を本当に喜んで下さっていました。「話を聞いてくれるのか嬉しいの。」「ボランティアさんたちが来てくれるのが嬉しいの」「ボランティアさんが来ない日は寂しくて」「ベンソンさんの顔を見るとホッとするの」といったように、それがお世辞ではなく心からの言葉であることを思う時に、作業ともに一緒に話を聞いたり、笑ったりという大事な働き、そしてそれは被災者だけではなく聞かせていただく私たちにとっても宝物のような時間となることを改めて経験してきました。
ベンソン宣教師いわく、一度に作業ができればいいけど、ボランティアの数が8月以降、減っているという現実の中で、精一杯の働きを行っているとおっしゃっていました。さらに、この場所だけではなく先に関わった新館にも、最近行く機会が減ってしまい、向こうでもさびしい思いをしているからたまに顔を出すようにしていると言っておられました。そんな状況の中で、先生が、「アメリカから日本に宣教師として遣わされ二十数年たつけれども、人々の心に触れることがいかに大変だったか。しかし、この6カ月という短い時間の中で、これほど人々の心に深く、そして関係の広がりをもつことができているという主の働きの不思議さがある」と語っていました。
 この日は、午前の仕事を終えて昼食後に出発を予定していましたが、K宅の裏にある柿の木を切ってほしいという要望にこたえて、昼食を簡単に済ませて作業することにしました。K兄が携帯したチェーンソーで木を切り、K兄が家族とともに枝の片付けを担当しました。Y師はK宅の養生の残り作業と最終的な掃除、さらにH兄はW宅に戻って最終的な片付けを行うといったように不思議な連携と分担がなされてそれぞれの最後の働きをさせていただきました。1時半にほぼ終了し、帰る準備を整え、最後に短い交わりをK宅で持って帰ることにいたしました。
 K宅にK夫妻と奥様の姉のTさん、さらにW宅のご夫妻が来られ最後の楽しい団欒の時を持ちました。その中で、ご家族がベンソン先生にイザヤ58について尋ねられました。ベンソン先生から振られて、イザヤ58ネットが聖書のイザヤ書58章を通して、痛んでいる、傷ついている方々の傍らに立つこと、そしてそのような方々ともにある時に私たち自身も光り輝くということを願ってというような趣旨を、突然のことで、お恥ずかしい話、うまく言えなかったのですが、実際自分が経験している被災地の方々との交わりで自らが教えられ、励まされ、慰められる経験をお伝えしました。そして願わくはぜひ、聖書を読んでみてくださいと付け加えました。するとすかさず、ベンソン先生が「聖書は私が持っていますよ」と言われ、追い打ちをかけるように、Y師が「『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ11:28)などの素晴らしい言葉に満ちあふれていますよ』と語られました。そのような言葉がスーッと入って行く、それはこれまでの多くクリスチャンボランティアを通して少しずつ主が備えて下さった瞬間でした。
 帰りに、ベンソン宣教師が耳打ちしてくださいましたが、これが、私たちが願っている自然な形での宣教ですと言われました。もちろんダイレクトに福音を宣教することが必要な場合もあるでしょう。しかし、まず痛んでいる方々の必要に応え、寄り添いながら、愛を届ける。そしてその中で、人々の心がほぐされ、ことばの宣教が始まって行くそんな出来事を見たような気がします。ベンソン宣教師も今後この場所にカフェのような場所を備えて、人々が憩うことのできる場所ができることを願っています。そしてそのような場所がさらに福音の宣教の場となることをその先に見ていることと思います。私たちも祈り続けていきたいと思われました。
 まさに後ろ髪を惹かれる思いで2時半過ぎに石巻を出発、途中、蔵王PAで南三陸チームと合流して、メンバーの乗り換えを行い、国見SA、那須高原SAを経て、8時過ぎに足利に無事全員で到着できました。長距離の運転が守られ、運転のためにO師、H兄のご奉仕があったこと感謝でした。到着後、T.Y牧師に祈って頂き、最後に、四日間、会計を務めて下さった安田師が会計の締めをしてくださり、皆さまからささげられた尊い献金に感謝しつつ、会計を閉じることができました。
長くなりましたが、少しでも祈り覚えて下さっている皆様に状況をお分かちできらと思い書き連ねてしまいました。書ききれない沢山の主から頂いた恵み、また現地で報告や証がありますが、参加された方々に是非そのような証をお聞きいただければと思います。また、もし許されるならば、ぜひ現地ボランティアにご参加くださればと思います。
最後に、4月の視察から今回で4度目の参加が許され、多少なりとも被災地の変化を見させていただいております。少しずつ前に進んでいますが、引き続き、働きが残されていることを感じています。今後ともこの働きのために祈りつつ、共に歩んでいただければ幸いです。
個人的なことですが、改めて、現地のボランティアが支えられているのは、特に牧師にとっては遣わして下さっている教会や家族の理解と支えがあること、また多くの方々の尊い祈りと献金、そして励ましがあることを実感し、感謝しております。そのようなことに感謝をこめて、遣わされた者の責任としてここに第五次の報告をさせていただきます。ありがとうございました。最後に、森谷先生を通しての働き、特に南三陸での働きについては、SBSのブログにおいてご覧いただけます。http://saigai-sbs-net.blogspot.com/

2011年9月20日火曜日

第4次派遣活動を振り返って(2011年9月5日~8日)

はじめに
2011年3月11日午後2時46分に東日本大震災が発生してから早半年が過ぎました。イザヤ58ネットも4月にスタートしてから視察、支援活動、支援物資の提供、会議等を含めて9回現地に行っています。皆が夢中で奉仕して、あっという間に半年が過ぎていきました。この間に多くの教会や兄弟姉妹の励まし、祈り、具体的な支援をいただきここまで来ることが出来た事を深く感謝しています。個人的な事を言えば、私はそれほど丈夫ではないにも拘らずここまで主に支えられていることは本当に不思議なことです。被災者の為に何かしたいと思いつつも現地に行くことなど夢にも思ってみませんでした。それが今では平気で片道400㎞を車で運転しています。
またこの働きは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という聖書のことばに基づくものです。ですから兄弟姉妹と共に隣人に仕えることは実に楽しく、喜び溢れる奉仕であります。今回は男性3名でしたが少人数であった分メンバーや仙台SBSネットと幸いな交わりが多く与えられ真に幸いな奉仕となりました。車はI兄が大きな車を用意してくださり感謝しております。

第4次派遣活動の特徴
今回の奉仕は私達イザヤ58ネットにとって非常に重要な派遣でした。それは私達の南三陸町や石巻での働きの方向性がかなり見えてきたことです。これが第一に大きな成果です。第二は現地の被災者や奉仕者との協力関係の継続により信頼関係が更に増して来たことです。この二点を肌で感じた活動でした。
南三陸町
私達が知る範囲での現状報告

 避難所で生活していた皆さんは8月いっぱいで避難所を出て全員がそれぞれの仮設住宅に移りました。希望していたところに移った人、そうでない人とそれぞれですが新しい生活が始まった訳です。無償で家が提供されます。電気製品等も提供されて新しい生活がスタートしたのです。確かにここまでは良いことでしょう。
しかし仮設は2年~3年という期限付きの生活ですのでいつかは退去しなければなりません。また電気、ガス、水道代は自己負担となります。家のロ-ンが残っている方は支払いがあるでしょう。仕事を失っていても健康保険料は払う必要があります。勿論毎日の食料品や生活物資も自己負担となります。経済的な負担は私達が考えるよりも非常に深刻な問題であると言うことです。また知らない人ばかりが住んでいる仮設に引っ越した人は人間関係を作っていくのに時間が掛かります。特に人間関係を作っていくのが得意な人ばかりではありません。関係を持つのが苦手な人もいます。
健康管理については高血圧、糖尿病、気管支喘息等の持病を持っている人は辛い面があります。病院が流され、カルテも無く、お医者様も新しい先生が担当となります。また忘れてならないのは、家を失い、家族を失い、仕事を失って大きな悲しみの中にある方が孤独になってうつ状態となり、やがてうつ病を患ってしまいますと自殺の危険性がでてきます。要注意となります。
こうして現状を分析すると必ずしも暗い話ばかりではありませんが、厳しい状況には変わりありません。この人たちに「早く自立して」と言っても過酷なことではないでしょうか。また果たして町がこれから何年掛かって復活できるか正直まだ先が見えてきません。

私達に出来ること
幸いな事に南三陸町にはクリスチャン達や教会関係者が進んで奉仕しています。南三陸町の人を自分と同じように愛している人たちがいます。私達が以前から連携している仙台バプテスト神学校のSBS災害復興支援ネットワーク(代表森谷正志師)と全世界の多くの支援者が沢山います。また3月の震災以降直ぐに南三陸町の避難所に駆けつけて奉仕しているキリスト聖協団西仙台教会の中澤竜生牧師とこの働きを支えるが多くの支援者がいます。
両師は仙台から100キロ以上離れている南三陸町に頻繁に出かけては支援活動を続けています。ですから地域住民や行政の信頼が厚く支援活動は行政の中にも入り込んで行けるのです。ここまで来るには多くの犠牲があった事でしょう。
またお二人は多くの仲間と共に8月18日に南三陸を支えるキリスト者のネットワークを立ち上げました。私達イザヤ58ネットもこのネットワークと連携して働きを進めることが可能となっています。但しこれは始まったばかりでまだ具体的な方向性が定まっていない事も事実です。これから私達は現地の実情を正確に知っていくことが必要となります。そして自分たちの身丈にあった働きを着実に積み重ねていくことが求められているように思います。
特に10月と11月に人員を派遣して南三陸町の志津川の仮設住宅や大森地区、また北部の枡沢、大上坊、米広の各地区で奉仕を予定しています。ここでは傾聴、お茶会、芋煮会等による信頼関係の構築や支援物資の提供が中心になります。また冬に備えて日用品や冬物衣料等の支援ができるよう教団の各教会に呼びかけていきます。

石巻
石巻での働きは南三陸町での働きと全く違います。ここでは主に仙台ルーテル同胞教団のディーン・ベンソン宣教師と石巻のキリスト教会・祈りの家の代表阿部一兄弟を中心とした働きです。石巻では倒壊した家屋ばかりでなく、家は残ったものの津波によるヘドロの為に住めなくなったお宅が無数にあります。今ベンソン師は全世界の支援者と共にこのような家の床の泥払いから始めて壁をはがして家を再生する働きをしています。
先日私達が奉仕した家は5月に行ったチームが泥払いをしたNさんの家です。ここでは床板が張られ、断熱材、石膏ボードが取り付けられていました。秋田からルーテル同胞教団の大工さんが泊まり込みで工事をしていました。全て無償工事です。費用は全世界からの献金によるものです。Nさん家族はクリスチャンではありません。しかしベンソン師達は改築が必要と判断した家屋は最後の完成の時まで続けるのです。これがキリストにある隣人愛の行為です。
またもう一軒、Dさん宅(女性)を工事しています。私達も三人で泥払い、壁剥がしをアメリカの宣教師チームと一緒に行ないました。ここも進んでいますので10月に行く時にはだいぶ形が出来ていると思います。またDさんとは自由に聖書や信仰の話しが出来ますので感謝でした。
一方、阿部一兄弟は全体的な管理をしています。どこに何が真に必要かを見極めて、援助が必要な人に、必要な分だけ、必要な時に提供しています。支援物資は日用品等をきめ細かく提供しています。阿部兄弟は70歳代です。県立高校の教師を退職後に家の教会の代表として奉仕する傍ら、ベンソン宣教師と協力してキリストの愛をもって地域の人に真心から仕えています。あの行動力には驚かされます。まさしくキリストの力によって動かされています。
今回私達は教団の有志の皆様からお預かりした支援物資指定献金の内5万円をキリスト教会・祈りの家を通して石巻の皆さんに使っていただくことにしました。イザヤ58ネットは今後も石巻でベンソン宣教師、阿部兄弟達の点ではなく、面を着実に広げていく働きに加わって行きたいと願っています。それは同時に石巻での宣教協力につながる働きと確信しています。

今後の方向性
南三陸町では8月18日に「南三陸を支えるキリスト者のネットワーク」が立ち上がったばかりです。各団体にはそれぞれの思惑がありますので、これからどのような方向に進むのかを良く見極め、自分たちの身の丈にあった働きを着実にしていければと願っています。特にイザヤ58ネットが出来る働きは仮設談話室での傾聴の奉仕です。これが今後ますます重要になってきます。
石巻では継続して家の改築・改修工事を手伝い、被災者の皆さんと関わりを続けて持っていきたいと願っています。11月まではこのまま継続する予定です。特に11月の6次派遣は木曜日から日曜日までを計画しています。こうすることにより会社員、公務員の方は動きが取れやすくなりますし、日曜日は現地の教会で礼拝を捧げ、交わりが出来ますので共に大いに励まされます。先生方が行かれれば説教奉仕も出来ます。これは現地の教会にとっては大いに勇気づけられることでしょう。今後の更なる広がりを期待しつつ。

・・・お知らせ・・・
10月29日(土)
イザヤ58ネット特別集会
「3.11東日本大震災・・・あれから八ヶ月」
・・・津波と原発事故にあった教会から・・・
場所:福音伝道教団太田キリスト教会(群馬県・太田市)
講師:佐藤彰先生(福島第一バプテスト教会主任牧師)

2011年9月12日月曜日

9月の支援活動の報告

 ブログ責任者の個人的事情があって、ブログへの書き込みができませんが、9月の支援活動をした方のホームページに支援の報告が掲載されておりますので、了解をとって、そちらのURLを紹介します。
 http://manna.board.coocan.jp/
こちらをごらんください。
・・・お知らせ・・・
10月29日(土)
イザヤ58ネット特別集会
「3.11東日本大震災・・・あれから八ヶ月」
・・・津波と原発事故にあった教会から・・・
場所:福音伝道教団太田キリスト教会(群馬県・太田市)
講師:佐藤彰先生(福島第一バプテスト教会主任牧師)

2011年9月1日木曜日

「イザヤ58ネット特別集会のお知らせ」

 9月に入りました。3月11日のあの日から7ヶ月に入ろうとしています。しかし、南三陸を訪れた時、まだ片付いていない津波で壊れた建物に、あの震災の時の時間で停止したままの柱時計があったのを見た時、被災者たちにとっては、何ヶ月たっても、あの時から時間が停止しているのではないかと思ったりもします。
8月末で、岩手、宮城などの避難所は次々と閉鎖されています。ある人は、仮設住宅に、ある人は他県に移っていってもしています。避難所では、支援物資がありましたが、仮設住宅に移ると支援物資はなく自活していくことが求められますが、実際は、仕事を無くした人もいって、避難所から出たからといっても不安はぬぐえないでしょう。
 私たちイザヤ58ネットでは、主に石巻、南三陸での災害支援が中心ですが、福島、茨城などの被災地域を忘れてはいません。しかし、私たちの支援ネットの規模などから、気にはしておりますが、なかなか、そちらまで手が伸ばせないのが現実です。今後の課題としてお祈りしていく必要があります。
 そのような中で、このたび、津波と原発事故で、一年前に、立派な会堂を建てたばかりの会堂を原発から数キロ一番近い教会であったため、避難をせざるを得なかった福島第一バプテスト教会の牧師佐藤彰先生を迎えての講演とイザヤ58ネットの活動報告の特別集会を計画しております。皆様の出席を心から期待しております。
「イザヤ58ネット特別集会『「3・11東日本大震災・・・あれから八ヶ月』
     ・・・津波と原発事故にあった教会から・・・」

日時:2011年10月29日(土) 午後2時~3時30分
場所:太田教会
講師:佐藤彰先生
入場料:無料(震災支援のための席上献金があります)
 
 

2011年8月19日金曜日

南三陸町支援会議

 今日19日、仙台の仙台SBSの拠点である仙台バプテスト神学校におります。昨日、南三陸町の第二次避難所にもなっているホテル観洋という南三陸の湾を一望できる大変、景色の良いホテルで、「南三陸町の支援を考えるネットワーク会議」がありまして、その会議にイザヤ58ネットも会議に参加して欲しいということで、参加いたしました。
 当初、20名程度の規模の会議と予想していましたら、60名規模の参加者となり、こんなに南三陸の支援に関わっていたのかと正直いって驚きました。
 クラッシュジャパン、飢餓対策機構、サマリタン・パース、キャンパスクルセード、東北ヘルプ、宮城ヘルプ、ブリッジ・フォー・ピース、また仙台地域の被災しながら支援活動をしている教会、キリスト聖協団グループ、同盟教団、JEA震災対策室、ブリッジ・フォー・ピースなどでした。
 すべてが、南三陸町を継続的に支援している団体とは限りません。初期に物資支援などをしていたグループ、ボランティアを派遣していた団体、そして、これから、具体的福音宣教をすることを考えているグループなど様々です。
 ある団体は、直接的に南三陸町の地域を支援するという働きではなく、「葬儀支援ネット」始めたグループの方もいました。そのきっかけは、ある仮設住宅で、被災者同士で口論となり、一方が興奮して相手の家に安置してあった家族の犠牲者の遺骨を投げつけてばらまいてしまった事件があったそうです。そのばらまいた人の家族は津波で犠牲になり、まだ遺体も見つかっていないひとだったそうです。そのことを通して、葬儀も金銭的にできない、お墓も用意できな人たちのために、葬儀の司式をする牧師を紹介し、その費用は支援組織で援助する。また納骨も、教会の納骨を了解してくれた教会を紹介していくという働きを開始したグループの説明があったそうです。
 もし、教会の納骨堂にあずかってもいい教会があれば、ちょっと遠いのですが紹介していくのもいいなと思いました。
 このことを通して、支援には、様々な形があり、多種多様で、本当に創造的な支援が必要とされるということを教えられました。
 今回、予想以上に、参加団体が多く、それぞれの活動状況を報告することで終わり、具体的な今後の活動や協力のあり方について踏み込んだ話しは時間的にできませんでした。
 しかし、たった二時間ですが集まったことの意味は大きかったと思います。私たちと当初から南三陸町の地域に支援をしていた仙台SBSや、またそこに協力している仙台の教会の支援グループは、南三陸町の行政と連絡をとり、率直な意見交換を通して、徐々に行政の信頼関係を築き始めています。
 町の復興のために、行政の側も、私たちボランティア支援団体の力を必要としております。なぜなら、町の機能が壊滅状態で、また国からの具体的な方針が示されていない中で、これから、仮設住宅の住人、町の機能の復旧と、次から次と課題が多く、行政も手が回らない状況です。
 今回、重要だと思ったのは、この会議に参加した団体の名簿を行政に知らせて於いて、町の地域や仮設住宅への支援の働きかけについて、「この団体なら安心です」といういわば行政から了解を得ることです。
 今、東北の被災地に、様々なカルトが支援の名目で入り込んできています。中には詐欺まがいの支援活動をするグループもあるようです。そのような中で、行政と連絡を取りながら、行政が届かない地域に訪問して対話してあげて欲しいという、行政からの要請なども聞けることです。
 また、支援を受けた地域の中心的な人たちとの信頼を得るきっかけになります。地域のリーダー(地区の区長など)と関係を持つ中で、その地域だけでなく、他の地域で支援を必要としている集落の存在がわかることです。
 今回、会議の後に、米広という小さな山間の集落に行きました。そこは、谷間の集落ですが、新しい住宅街およそ40戸ほどの谷間の低い地域にあった住宅が、津波で全部流されて、住民50名のうち40名ほどが犠牲になった地域でした。津波の影響を受けなかった家に避難している人たちがいるそうです。
 その地域のリーダー的な方の農家を訪問しました。いくつか津波の直接的被害を受けなかった残った家は、農家がほとんどですが、山間の奥だったため、津波の被害を受けていないのですが、農作物を収穫しても、南三陸の農協が壊滅して建て直しの最中のため、売るための販路がないようです。現金収入のめどがたたないという問題を知りました。とりあえず、その収穫して販路がない野菜をJA(農協)へのお卸値で購入して、避難所や関係者に配るようにしました。この方を知ることを通して、今後の支援の課題、物資支援の次にある課題について見えてきたような気がします。いままでの支援物資を被災地に運ぶ働きも継続させる必要がありますが、同時に、販路のなくなった農産物や水産物を、物資を運んだ帰りに、それらを購入してあげて、持って帰り、私たち教会の関係者が購入してあげることも検討できないかと考えました。私たちイザヤ58ネットの関係教会は、農業地域の教会もあるので、できたら、そうでない、都会などの教会に呼びかけることができないかを検討する必要を感じております。
 今回は、各支援団体の活動状況の報告で終わりましたが、行政と被災者たちとのブリッジを私たち支援グループがどう構築できるかについて、踏み込んだ話し合いが必要のようです。物資の支援の先にある、雇用の問題、仮設住宅の生活に伴う様々な不安、取り組むべき課題が徐々に浮かび上がってくる感じです。
 イザヤ58ネットの今後の活動方針についての、方向について、示唆をあたえられた南三陸の訪問でした。

2011年8月8日月曜日

7月ボランティア派遣報告

第三次全体報告
 今回の支援活動の大きなものは、南三陸の被災者たちとの、バーベキュー大会を実施したことです。
これは、単に支援チームと被災地の方々との交流ということ以上に、地元の地区の中心的な方たちが、願ったことでもあります。この地区は、津波で全壊した家などがある地域でないのですが、そのためかえって支援物資が行き渡らず困窮していた所でした。十分な支援を受けない中で、地元の人たちとの間もギスギスした雰囲気がでて、何とか昔の和気あいあいとした地域に戻したいという願いで、地域同士の人たちの懇親と
少しでも明るいことをと願ってのことでした。
 また、石巻での復旧活動もお手伝いをすることができました。一方、南三陸に行ったチームは、行政の人や避難所の人たちとの情報交換をしてきました。
今、被災地での今後の課題は、自殺者がでるのではという不安があり、そのケアを行政も避難所のリーダーも心配していることです。
現実には、支援の40%は、支援団体の支援に頼っているのが現状です。また、町としての機能が完全に壊滅しているため、人々が集まる場所もないのが現状です。
 南三陸の一番大きな避難所である志津川高校の避難所も8月一杯で閉鎖となるそうです。
 一方、石巻では、津波の跡は海岸部では、まだ傷跡がなまなましく残っており、復旧活動もまだまだ続けなければならない状態です。
イザヤ58ネットでは、9月5日~8日の第四次派遣のボランティアを募集しております。

活動報告
25日
13名が3台の車に分かれて、午前9時半頃に足利を出発。途中、那須高原SAや安達太良SAなどで合流することもありましたが、基本的にそれぞれのチームで昼食をとり仙台へ。
午後2時過ぎに仙台バプテスト神学校へ到着。午後3時より打ち合わせ、特に次の日のバーベキューの買い出しや期間中の流れを確認した。
午後4時より、バーベキューの材料の買い出し班と、バーベキューの道具の準備班、食事班に分かれて活動。
午後6時より夕食。自己紹介を兼ねて仙台SBSのM先生ご夫妻を交えての歓談。M先生ご夫妻とは四日間食事を共にすることができた。夕食後7時より、材料(玉ねぎ)や物資(ネギ)の下準備、片付け。午後8時より、バーベキューの担当やチームの活動の確認の打ち合わせ。
26日
食事担当責任者のY姉を中心にお弁当の準備。午前7時よりディボーション。マタイ24章1-14節がO師より開かれる。朝食を終えて、午前8時より野菜切り、おにぎり、出し物の練習等、それぞれの役割を果たす。カンバーランド希望の丘のO姉がチームに加わる。荷物を積み込み、午前11時に南三陸へ出発。蔵王バプテスト教会のT師加わる。 ホテル観洋に、午後1時に到着し昼食。午後2時に、3名のメンバーがT師たちとともに旭が丘へ。残りのメンバーは森谷師ご夫妻とともに、大森地区へ。コンサートの会場づくり、屋根づくり、バーベキューの準備など、それぞれが役割を果たしつつ、大森の方々や他のボランティア団体との交わり。
午後4時よりバーベキュースタート。100名程度の方々が参加。K兄の手品や賛美、小澤師の賛美と解説に続いて、韓国からいらしたゴスペルデュオ「宝を入れた土の器」のコンサートが行われる。数名の子どもたちと遊ぶ。午後7時に終了。午後9時に仙台バプテスト神学校に到着。簡単な打ち合わせを行う。
27日
お弁当の準備。6時半よりディボーション。詩篇90:16-17節がM.N姉より開かれる。朝食後、石巻チーム10名は、7時20分に出発。9時半に石巻へ到着。ルーテル同胞のベンソン宣教師と阿部一さんと合流。また、前日に続きT師、A兄、またY兄、S姉が加わり「畑のヘドロかき」と「土に混じった携帯のパーツ除去」、「雑草等の片付け」の三班に分かれて活動。午後12半より昼食。途中、第一次派遣(5月)の際にお世話になった中川さんと再会。午後1時半より活動を再開。午後3時半に片付けを始めて、午後4時に帰途につく。帰りに、視察の時(4月)に関わったT師のご実家及び野蒜地区や東松島の現状を視察。午後7時仙台到着。外食先で、チームのメンバーの証を交換し合う。
南三陸チーム3名はM先生ご夫妻は南三陸へ。現地でカール兄の賛美と手品や「宝を入れた土の器」のコンサートが行われるが、途中雨で中断する。働きを終えて、仙台で外食。両チームがそろったところで、午後9時半より全体ミーティングを行う。
28日
お弁当の準備。午前6時より掃除や帰りの準備。6時半よりディボーション。第一ペテロ4章7-11節がカール兄より開かれる。朝食をとり、帰りの荷物を積んで7時20分に石巻チーム11名が出発。9時30分到着。現地で4名の外国人ボランティアと1名の日本人ボランティアが加わり、前日に続き、「畑のヘドロかき」と「土に混じった携帯のパーツ除去」、「建物内の片付け」の三班に分かれて活動。午後12時半より昼食。午後2時、横浜のカンバーランドから来たM姉と別れて、足利に向けて出発。午後7時足利に到着。
南三陸チームの3名は午前8時半に出発。10時40分に到着。避難所のリーダーから様々なことを教えられる。また被災地の現実の姿や課題を目の当たりにする。12時30分に出発。他のチームと同じく午後7時に到着。
ボタンティア参加者の報告
 回初めて参加させていただきました。最初から舞いあがっていて周りに迷惑をかけていたことが多かったと思います。実際に被災地に行ってみて、テレビの映像で見ていたものが、3Dの立体に広がり、声も出ない気持ちになりました。このことは、自分の中で一生忘れられない経験になったと思います。神様がなぜ、このような悲惨なことをなさったのか、私には理解できないが一生の祈りの課題として、少しでも神様の声を聞くことができるようにしていければと思っています(大間々T.Y兄)

 今回の派遣に加わることができたことを感謝しています。少しでも人の役に立つことができたとすれば、本当に幸いなことだと思います。教会の礼拝や祈り会での祈り、一人一人の祈り、みことば、現地のキリスト者の働き、教団や牧師の働き、物資支援集めなど、主にあるいろいろな働きがお互いに影響し合い強め合って、様々な形で隣人を助ける働きとなっているのだと思います。キリスト教界では、被災地域へと進出する動きがあると教わりました。困難の中にある人に対して具体的に支援をしながら、みことばを宣べ伝えようということなのだと思います。炭鉱労働者の救いのためのマイナーズミッションという働きがあると聞いたことがありますが、状況が少し似ているように感じました。M師が話されていた「宿題」を記しておきたいと思います。津波の被害にあった場所では、体の比較的弱い方や不自由な人が生き延びて、比較的健康な人が被害にあう、というケースがあったそうです。その理由は、健康な人が不自由な人を安全な区域へ連れて行き、また危険区域に入って行って別な人を連れ出す、そのことを繰り返しているうちに津波の被害にあってしまったからだそうです。それはなぜか、それで本当に良いのか考えてみてください、という内容だったと思います。(本庄M.Y兄)

今回のボランティア活動を終えて、四日間を通して,被災された人たちのお役に立ててうれしかったです。いくつかのプログラムも楽しく出来ました。南三陸や石巻は崩れなども沢山ありましたが、被害を受けた人たちのため、沢山の人たちで助け合いました。僕はバーベキューの手伝いや力仕事の手伝いなどを行いました。バーベキューの仕事が大変でしたが、仕込みなども自分でいろいろやって、みなさんの笑顔をみることが出来て良かったです。途中、少し疲れたけれどとても良い体験が出来たと思います。石巻では畑の中の作業を行いましたが、泥が大変で、土の埃が一杯あって辛かったです。掘るのにも非常に大変でしたが、少しはみなさんの力になれたらと思いがんばりました。この四日間のボランティア活動を振り返ってよい体験が出来ました。(太田Y.K兄)

「南三陸町の皆さんの笑顔」
 今回のボランティアで印象に残っているのは、南三陸町の方々とバーベキュー&ミニ・コンサートの時を持ったことです。出発前に「ウクレレ持って来て下さい」と声をかけて頂き、打ち合わせとして童謡の演奏をすることになっていました。正直いいますと現地の人々の状況が分からず、どんなことを話し、どんな顔をしてウクレレを弾けばいいのだろうかと心配もありました。ところが南三陸町の方々は私たちボランティア一行を温かく受け入れて下さり、笑顔で迎えて下さいました。コンサートも前日になって韓国からプロフェッショナルのゴスペル夫妻デュオが参加してくださることになりました。その前座として、K兄がギターを弾き、歌うとともに手品を披露しました。その後、前座パート2が私でカールが場を和ませていたことで意を新たにし、ウクレレ漫談をしました。讃美歌と童謡について話し、讃美歌「まもなくかなたの」が俗謡「タンタンたぬき」を生みだしたエピソードを語りました。誰もが知っている童謡「ふるさと」を弾くと皆さん声を合わせて下さいました。言うまでもなく、その後のゴスペルデュオのコンサートは素晴らしく圧巻でした。歌と演奏の素晴らしさだけでなく、クリスチャンとしての証にあふれていました。その間、少し離れた所で、バーベキューがイザヤ58ネットのメンバーによって用意され、焼きあげられました。メンバーの一人一人が奉仕に徹し、焼きあがったバーベキューのおいしかったこと。余韻を感じるおいしいバーベキューでした。コンサートの感動とバーベキューの味わいに南三陸町の人々が見せて下さった笑顔がこちらのメンバー一人一人を笑顔にしてくれました。この関わり、交わりが長く続けられますように。心から思いました。(熊谷K.O牧師)

 私は日系二世でアルゼンチンに生まれました。生まれて初めてボランティアに参加して、一人一人の交わりがありました。テレビの映像と、実際に自分がここにきて目にしたものが違っていることを感じました。ボランティアは、からだの仕事もありますが、違ういろいろなボランティアもあるし、また交わりもあります。色々な教会の人々も参加しているので様々な話を聞くことができるのも良かったです(太田T.H兄)

無事に任務を終える事ができてほっとしています(足利T.Y牧師)

 自分は学生であらゆる面で経験が浅く、資格なども持っていないので、自分に役に立てる場があるかどうか不安でした。けれども、それぞれのメンバーにそのメンバーの個性に応じた役職が割り当てられ、学生の自分にも適切な働き場がありました。今回の働きは現地の人々に安らぎや癒しをもたらすということがメインであったように感じました。特に二日目のバーベキューは震災で心身が疲れ切っているであろう現地の人々に安らぎを与えられるような良い働きであったと思います。現地の人々からの感謝の言葉はとてもうれしく感じました。自分は今まで行いのない信仰に悩んでいましたが、聖書の言葉をもとにしている今回のボランティア活動は、行いを持った信仰の第一歩を踏み出せたように思います。また実際に被災地を見る事が出来たことで今回の地震に対してより深い関心を持って「自分に何ができるか」を考えていくことができると思います。今後もこうした活動は続いていく必要があると強く感じました。(小山K.D)

2011年7月26日火曜日

南三陸大森地区第二次物資支援

再び、7月14日に、南三陸大森地区へ、物資支援を有志によって運ぶことができました。第一次と同じくらいの物資を2トントラックに満載して運ぶことができました。
右側遠方の山の斜面の集落が大森地区です。

 第一次は、「本当に来てくれるのだろうか?」という不安が現地にあり、今か今かと物資を待っていました。少しでも必要なものが欲しいという気持で、少し殺気だっているような雰囲気があったそうでしたが、今回は、同じ支援グループ(イザヤ58ネット)ということで、落ち着いた雰囲気でした。


物資の到着を待ち受けていました。
 このブログを掲載した時は、ボランティアが現地に行っている時です。
 今回は、大森地区で、地区の責任者と仙台SBSのM先生とが話し合い「少し、明るいことをしたい」ということで、地域の人たちとバーベキュー大会を計画しております。地域の人たち150名ほどが参加して、懇親を通して地域との信頼関係を築いていければと思います。
 昨日、コロラドのある教会のアメリカ人の方からブログを毎回、感動して読んでくださっているとのメールをいただきました。英語に翻訳して、自分の祈りのグループで分かち合って下さっているそうです。地味な働きですが、物資の支援だけでなく、人と人をつなぐ双方向の支援の応援者がいることを主に感謝したいと思います。

2011年7月12日火曜日

言葉を失うことから始まるもの

 イザヤ58ネットのブログなのに恐縮ですが、今回、すこしブログの担当者の個人的な思いをお分かちさせてくださることをお許しください。
 「震災から四ヶ月」たちました。しかし、いまだに支援物資が必要な所があり、イザヤ58ネットでは皆様からの支援物資をお預かりし、再び2トン車満載にして南三陸地方に運びます。四ヶ月たっても、まだ物資支援が必要であるという現実が、震災の大きさを物語っております。残念なことですが、恐れていた予測が徐々に顕在化して、もう被災者の中から自殺者が出てき始めております。せっかく津波や地震、そして、あの寒さの中を耐えてきた人が、現実の避難生活の中で心が折れてしまい、「お墓に避難します」と遺書を書き残し自殺してしまった方がいます。本当に心が痛みます。
 当初から、私たちの支援活動と深く関わっている仙台SBSも、単なる物資の供給だけ、支援の量よりも、支援の質ということを課題にしていた中で、私たちもその考えを大切にして共に協力していきたいと願っております。単に物を支援することだけではなく、傍らに寄り添う支援を目指す働きとは何かを、問いながら支援活動をすすめ、その先にある神さまのみこころを見いだすことができればと思います。
 私たちは、四ヶ月前、テレビで次々と家や車、そして人が津波で飲み込まれていく光景をライブで見ていました。現在の情報技術は、ちょっと前に起きた出来事を伝える時代から、今、現実に起きている光景を私たちに知らせます。そして、私たちはその今起きている現実に言葉を失う経験をしました。
 しかし、テレビで見たこと以上に、被災地で被災した後のすさまじい傷跡を見たり、助かった人たちから被災の現実を聴くと、更に深い沈黙を経験します。孫と避難していた祖母が、もう歩けなくなり、やっと高台の階段に来た時「もう、自分は歩けない・・・、お前は逃げろ」といって階段の踊り場の所で座り込んでしまい、津波にのみ込まれた話しを聴きます。自分の家族を助けられなかった無念さ、そして、助かっても、家族を失い、生活の基盤も失ってしまった人たちの喪失感・・・。
 四ヶ月たって、私たちイザヤ58ネットでは、ささやかですが、援助の行き渡っていない援助の隙間となっている地域への物資の支援などに関わっています。同時に、被災地の心の隙間をどう関わっていくかが今後問われていくでしょう。そのような人たちに、今までのような福音提示では表面的で、単なる支援の側の自己満足に終わってしまうのではとも考えさせられます。私たちは、どのような言葉をもって、福音を提示して、心の隙間を埋めていく働きをしたら良いでしょうか。また、キリスト者として、どのように接したらいいのでしょうか。
 福島原発事故被災で、避難を余儀なくされた教会の牧師S先生は、行く先々で「先生と同じように、自分が立たされたら、自分はどうしたらいいのか考えさせられる」「そのような中で、何を説教したらいいのか自分には言葉が見つからない」と言われるそうです。自分も同じことをS先生に言ったことがあります。
 「言葉を失う経験」、もしかしたら、自分にはその経験が必要なのではと思わされております。今、私は今年のクリスマスのアドベントの説教の準備をしています。その中で、聖書の中に「言葉を失う経験」をした記事があることに気がつきました。それは、あの祭司ザカリヤが神殿で妻のエリザベツが身ごもることを主から示された時、それを信じられなかったザカリヤが、話すことができなくなった記事です。彼は、しばらく人に話すこともできず、沈黙の時を経験しなければなりませんでした。その沈黙の中で、彼は主の取り扱いを受け、主の言葉を信じることができなかったことへの悔い改めが求められました。
 今、自分は無理に語るのではなく、必要なのは、この大きな震災の出来事の前に、多くの言葉を語る前に、主の前に黙して聴くことが求められているのではと示されています。そして、そこから「新しい言葉」を主からいただく必要があるのではと思われます。私たちは、この震災の経験からどのような「新しい言葉」を聴くことができるでしょうか。
 あの南三陸の被災地に行ったとき、確かに音は聞こえるのです。自衛隊がガレキをかたづけているブルドーザの音、自動車が通る音、しかし、人の話し声が聞こえない。生活の音が聞こえませんでした。奇妙な沈黙が支配しているのです。その沈黙の経験を通して主から新しい言葉を聴き取りたいと願わされております。
 キリスト教哲学者ピカートという人の「沈黙の世界」という本があります。その中でこのような言葉がありました。「沈黙と信仰とのあいだにはある種の関係が存在する。信仰の領域と沈黙の領域とは、相い依って一体をなすのである。つまり、沈黙は、そのうえで信仰という超自然的なるものが成就されるところの自然的土台なのである」。主からの言葉を聞くために、時にはザカリヤの経験が必要なのではないかと思われます。
 斥候(ものみ)よ、夜はなにのときぞ。
 斥候(ものみ)よ、夜はなにのときぞ。
 ものみ答えていふ・・・
 朝(あした)来たるとも
 なほも夜なるべし。
 汝もしとはむ(問う)とおもはば問へ。
 なんじら帰り来たりて また問ふべし。
             (イザヤ書)
 
 
 
 
 

 
 

2011年7月4日月曜日

働きの内容は毎回変わる

 早いもので、私たちの支援ネットが活動を始めて、三ヶ月以上が過ぎています。感謝なことに、徐々に関心を持って下さる方が増えていることは感謝です。私たちの支援ネットは、大規模ではなく、また震災地域に自分たちの属する教団の教会があるわけではなく、現地の支援ネットとのコンタクがあって、具体的、そしてタイムリーな支援ができるわけです。その意味で災害復興支援SBSネットとの連携は、とても重要であるし、この支援ネットと関係を持つことができたことは本当に感謝なことです。
そして、背後の祈りの支援と具体的な献げものがあって、現地の活動ができます。同時に「百聞は一見にしかず」といいますが、実際に被災地域に行かれたボランティアの方々は、色々な意味でインパクトのある経験をいたします。
 本当は、教会の牧師先生方をバスをチャーターして、現地の被災の過酷さを見ていただき、一度、「言葉を失う経験」をしていただいた方が良いのではとも考えたりもします。しかし、それは気をつけないと被災地域観光ツアーのようになり、かえって良くないのではとも考えます。
 個人的なことですが、自分が被災地域の教会の牧師だったら、何をするのだろうか。教会員が亡くなる、教会員の家族がなくなっている中、どのような祈りの言葉があるのだろうか。そこで語る説教は何だろうか。注解書もない、教会堂もない。あるいは、被災している中での、教会の支援活動に忙殺されている牧師や教会員・・・。自分だったらどうするだろうか・・・。しかし、そのような自問自答も、実際に見てきた中で、被災者と会話をしたり、現地で奮闘している教会の方々との話しがあって、リアルになってくる部分があります。
 どうしても、現地と離れている私たちの認識にギャップが生まれてきます。 たとえば、ボランティ活動をしてきた方々の報告を教会で聞きます。あるいは活動について聞きます。その活動の内容は毎回違っています。ある時は、被災者の家の後片付け、ひたすら泥かきの肉体労働、ある時は、子どもと遊んだり、物資を手渡す活動。毎回違います。その部分を送り出す教会、先生方は十分に理解していただきたいと思います。
 「子どもと遊んだんだ・・・、その程度だったらできるから・・・」と考えるのも、支援が身近になっていいのですが、反面、注意も必要なのです。それらの活動は、ボランティアに応募した方々の特徴を見て、現地の支援ネットのSBSの方が注意深く、支援先と内容を私たちスタッフと連絡を取り合って決めた結果なのです。

2011年6月30日木曜日

緊急救援物資

 多くの教会、そして地域の学校のPTAの協力で集められた救援物資を、6月24日(金)の2トンロングトラックに満載して、南三陸の大森地区に運ぶことができました。あらかじめ、仙台SBSの責任者のM先生が地域とコンタクトを取り、打ち合わせて、物資が到着したら地域の住民の方が50名ほどの方が、班ごとに仕分けや必要なものを選ぶために集まりました。
 この地域は、壊滅した漁港の近くの高台にある地域で、津波に建物が壊されることがなかったのですが、救援物資が行き届かず、買い物も思うようにいかない地域でした。
 その中で、水、衣料、食料、日用用品などを運ぶことができたことは、地域へのキリスト教系支援グループに対して良いイメージを与えることができたことでしょう。
 SBSとイザヤ58ネットの支援方針は、物資は直接手渡しで、できるだけ交流がなされることを重視しております。大きな救援団体の大規模な支援も大切ですが、支援の行き届かない所を捜して、地域のニーズに応えることを大切にしていきたいと考えております。
大勢の被災者たちが支援物資の到着を待っていました。

今後のボランティア派遣予定
他のボランティア団体と協力して、現地におけるボランティアの活動にかかわります。派遣の日程は以下に予定しております。ただし、現地の状況によって変更があることをご了解ください。また活動内容、車の都合により異なりますが、人数(3-7人程度)が集まり次第、募集を終了いたします。

第三次派遣 ⇒  7月25日(月)~ 7月28日(木)
※すでに募集を締め切りました。
第四次派遣 ⇒  9月 5日(月)~ 9月 8日(木)
第五次派遣 ⇒ 10月 3日(月)~10月 6日(木)

2011年6月25日土曜日

大きく考え、小さく始め、深く成長する

 このブログを書いている日の前日26日(金)に南三陸の大森地区に支援物資を2トン車で満載し3名のメンバーが物資を仙台SBSネットのM先生と共に運びました。到着すると50名くらいの地区の方々が物資を配るための仕分け作業にきたそうです。物資の到着を心待ちにしていたそうです。すべて必要な品物であったと喜ばれていることは、物資を提供した教会、関係者に報告すると喜ばれると思います。
 当初、私たちイザヤ58ネットを起ち上げたとき、何の経験もない者たちができることに限りがあることは十分承知で始めました。起ち上げる時、イザヤ書58章の聖書の言葉と、自分たちの力に限りがあることは神さまにお委ねして、神さまへの信頼には大きく考えて、小さなところから手のわざを始めようと、賛同したY先生、T先生、N先生、S兄と私Sが一週間で一気に起ち上げた組織でした。私たちの属する団体の文化としては、まさに乱暴で、そして大胆なことだったと思います。
 しかし、反響は予想以上にあり、諸教会、信徒の方々の関心、また具体的な支援をいただくことになりました。当初、今回の支援は1000CCの乗用車で届けることを考えていましたが物資が続々と来て、ハイエースワゴンで・・・と考え、とうとう2トンロングのトラックで荷物満載になって、イザヤ58ネットのY先生、このために参加してくれたY牧師と2トントラックを提供してくれたK兄が運転して、80世帯の支援から取り残された地区への支援のお役に立てました。
 このように支援の輪が広がっていることは本当に神さまが支えて下さり、それぞれが自分なりの小さな手のわざによってなされていくことは本当に感謝です。
 私たちの教団だけでなく、他の教団の教会の信徒のS姉、また横浜の長老教会のY先生などが参加してくださり、それぞれが自分の教会で支援活動の証しをしてくださっております。
 私たちイザヤ58ネットは、できるだけ支援を必要とされている被災地の方々に、寄り添った活動をしていければと願っております。この活動を始めるとき、メンバーと確認したことは「あなた助けられる人、私助ける人」ではなく「お互いに、成長していく双方向の活動」を目指しました。
 支援活動に現地に行った人たちは被災した人たちから、また現地で奮闘しているキリスト者から多くのことを教えられています。また、この働きに関心を持って祈ってくださり、献げてくださりしてくださっているこのブログを読んで下さっている皆様に深く感謝しております。
 このブログを書いている中で、他団体のS姉からの教会で証しをして下さって、また関心を持ち続けてくださっているメールをいただきました。また、横浜のS先生から自分の教会で報告した中から、教会員の方一人が7月の現地支援のチームに参加の申し込みをいただきました。感謝です。
 しかし、もっとも大きな支えは、それぞれの事情で現地に行ってこの目で見ることのできない、活動できない、しかし、何かお役に立ちたいと本当に私たちを支えてくださっている方々の存在です。ぜひこのブログの存在を宣伝して、現地にいけなくても祈りの支援に加わってくだされば感謝です。

 
写真は、6月の支援の時、避難所で整体のマッサージをメンバーのA兄がしながら、参加した臨床心理の資格を持ったM姉妹が被災者のお話を傾聴しているところです。体をほぐし、心をほぐしていただき聞いている様子です。
26日の前日、2トントラックの提供を受け、支援物資の積み込みをしました。

2011年6月23日木曜日

南三陸大森地区への物資支援

 仙台SBSネットワークの要請で、6月24日(金)に物資を南三陸町の大森地区に届けます。
今までは、仙台のSBSの拠点に行ってから支援活動をしていましたが、今回は直接現地に運んで欲しいとの要請でした。それだけ、早急に必要とされている所であるといえます。
避難所も大変なのですが、直接家屋が津波で流されなかった所も過酷です。なぜなら公的支援が後回しにされることが少なくないのです。
 SBSネットワークは、そのような支援に取り残された地域に、支援をして地域との関係を築こうとしています。10月ごろ、多くの援助団体は、物資の支援のシフトを再検討して、次の段階の支援について検討していくでしょう。私たちイザヤ58ネットも、10月以降の支援のあり方をSBSネットとも協議をしながら検討していきたいと思います。
 
写真は、南三陸町のマンションの屋上に乗り上げた車の写真です。
震災前の漁港です。手前の道を登った所が大森地区です。

2011年6月16日木曜日

南三陸町にて


 今回、私たちは南三陸町に入りました。行く途中、青い空、緑の田園地帯、青々と茂る沿線の木々を縫って、牧歌的なドライブでした。しかし、山を越えて、谷間の道を進むにつれて、山の斜面に張り付いたような自動車の残骸、山の中の道なのに、横の川には、漁船の残骸、土手から垂れ下がっている線路のレール、それが海岸から3キロも山に入ったところから始まります。更に視界が開けると、その光景に、私たちは絶句してしまい、車の中は沈黙が支配します。どうしたら、こんなに車が鉄の塊のようになるのか、すさまじい破壊力です。
 その中を縫うようにして、高台の住宅街を目指しました。一見、普通の住宅団地ですが、そこに命からがら避難して来た人々の避難所があります。
 今回、私たち13名のチームは、三陸町の旭が丘という地区に、以前から頼まれていた、衣料品、そして必要と思われる赤ちゃんのミルク、など物資を持って行きました。物資を支援するのも大事な支援ですが、今回は、被災した人たちとの関係を更に深めるための働きです。物資を一人ひとりに渡しながら声をかけていく。更に、必要な物を尋ねていく。
 被災してから三ヶ月、被災した人たちは、こちらから無理に尋ねるのではなく、自分から、被災の状況をなまなましく語り始めます。今、彼らは黙っていられないのです。自分の津波から逃げてきた恐怖の体験、家族を失った悲しみ。一人の婦人にズボンを渡すとき、恐縮して受け取ります。でも、「大変でしたね」と語りかけると、自分のことや家族を失ったことを語り始めます。
 今回、私たちのチームには、整体師、臨床心理士、英語の先生、保育士など、震災の家のそうじや片付けではなく、語りかけていくことが中心でした。
 マッサージを受けながら、体がほぐれていく中で、心がほぐれていく。そして、自分のことを傍らにいる私たちの聞き役の者が聞いてあげる。今までとは違った支援でした。
 震災の時、生まれた赤ちゃんを抱いた若いお母さんが、持って行ったミルク、赤ちゃん用の服、「女の子なので、ピンクのが欲しかった。うれしい・・・」と大切そうに持って行く。
 近くの公園で、子どもたちと遊んでいるメンバー・・・。
 何を報告していいか分からないくらいの経験をした。被災した人たちに見送られ、高台から降りていくと、再び、荒涼とした景色が目の前にある。そして、目をあげると、本当にきれいな澄んだ青空が見える。
このギャップにまた、絶句してしまう。(掲載した写真は、役場の女性職員が津波が来るのを最後までアナウンスして亡くなった防災センターの建物です)

2011年6月14日火曜日

生きることが福音

 今、支援のため、仙台の町の郊外の支援拠点の神学校の寮にいます。
私たちは、昨日、前回支援に行った、石巻の家の教会を地元でやっている信徒伝道者のA兄の家を訪問しました。普通の、きれいな家の入り口は、本来だったら自動車が二台は駐車できるスペースに、移動式簡易シャワー室が二つ設置されて、近くの避難所などの方々が自由にシャワーを使えるようにしてあるとのことでした。
 そのシャワーを使いに来た方に声をかけ、「食事はとれた?」「おにぎりを食べました・・」。「よかったら食事をしていきませんか?」。「何か必要な物が何かありますか?」と声をかけています。
 行政の物資の支援はあるそうです。彼らは「どこの世帯にも平等に」という原則だそうです。しかし、その「平等」の原則が「不平等」を生み出しているそうです。
 どの世帯にも、たとえば配給する時、缶詰が2個、水の1リットルボトルが一本といくつかの食料をセットで渡します。
しかし、均一に世帯ごとに同じ量を渡すのが原則なので、世帯の家族数が省みられません。
5人家族でも、二人でも同じ量です。そこに不平等が生まれ、その平等性の原則が、人間関係にきしみを生んでいるそうです。そこで、そのA兄たちは、避難所や被災家庭を訪問し、一人ひとりに必要を尋ねて、できるだけ、手渡しで渡す活動をしています。シャワーを提供して、来た人に食事を用意してあげる。特に聖書の話はしません。そのような中で地域での信頼性を築いていくのです。
 私たち支援者は、数日活動して、そしていなくなります。しかし、A兄たちは、そこに生活していくのです。大事なのは、共に生きる隣人としての生活の姿です。
 東北地方では人間関係の段階がいくつかあるそうです。まず「よそ者」の段階、次に「顔見知り」、そして「身内」・・・。
 今回の震災前、キリスト教は、所詮、「よそ者」宗教だった。しかし、今回の震災での地元の教会やキリスト者たちが地域の人たちに言葉ではなく、A夫妻や小さな家の教会のメンバーのように、共に生活者として寄り添う姿勢を見せています。ここで初めて、キリスト教は「教会さん」と呼ばれ、「顔見知り」の段階になれたと思うと被災地域のクリスチャンは思っているそうです。
 「生きることが福音なんだ・・・」。この言葉が強く心に響いています。
 今日、私たちは南三陸に行きます。今回は、震災の後片付けではなく、被災者に声をかけ、心を開いてもらって、彼らが心開いて、自分たちの必要を話せるようになるための糸口づくりです。マッサージをしてあげたり、子どもとゲームをしたり、物資を届けて、話を聴く、更に、必要について聞いていく。
いままでような肉体労働中心の支援ではなく、人間関係の最初の入り口づくりです。地元で生きているクリスチャンが「顔見知り」の存在であるための活動の入り口づくりです。
 
 

2011年6月9日木曜日

震災から三ヶ月

Webバージンのブログに加え、このたびモバイルバージョンのブログもできます。
スマートフォンなどの方はご覧下さい。
 震災から三ヶ月たちました。最初は津波や地震のショックとサバイバルのために必死さでここまできた
被災者たちが、その精神的ダメージが顕在化されはじめています。
 当初、報道されていた秩序だった避難生活と言われていた避難所も、避難所のリーダーたちの器量によって食料配布や支援物資の配給が行き渡っている避難所と足りない避難所などの格差ができつつあるようです。
 また、避難所も、良い場所に牢名主のような人が陣取り、その人の覚えが良い人たちがいい場所を占め、そうでない人が端に追いやられるような現象が避難所によってはあるそうです。
また、味噌汁一杯でも、お椀の中の汁の多さ少なさで配給する人にどなる人がでてきているそうです。
避難生活も三ヶ月、疲れの中で、精神的ストレスが人間関係をとげとげしくしているようです。
心のケアが必要です。
ある人は話さなくなったり、また普段、寡黙な人が、急に吉本興業のお笑い芸人のようにおしゃべりや冗談ばかりを言うようになったりと、震災ショックがいろいろな形で、出てきているようです。
 また、これから夏に向けて、食料、夏用の衣料などが必要と思われます。
 また、福島の関係者から聞いた情報によると、多くの支援が岩手、宮城に集中している中で、福島を素通りするため、福島の被災にあっている教会や支援活動をしている現地の教会では、孤独感の中で活動しているそうです。私たちも福島方面の支援にも目を向けていく必要があると思われます。

2011年6月7日火曜日

JEA総会に出席して

 いま、JEA(日本福音同盟)の総会に出席しております。今回は、東日本大震災への取り組みが中心テーマです。
来週、南三陸町に行く者としては、この機会を感謝しています。
何より感謝するのは、様々な教団教派の代表を通して、それぞれの支援の取り組みや、この震災をどう受け止めるかの神学的考察、そして、仙台地域の諸教会の現地支援ネットの仙台ヘルプのY先生が証しされていたことでした。
 この震災を通して、こんなに東北が注目されたことは今までなかった。この震災を通して、こんなに東北の教会に支援のお金がささげられたことはいままでなかった。こんなに東北の教会が祈られたことは今までなかった・・・とおっしゃっていたことが、印象に残りました。
 それと、このような震災で統計的にハッキリしていることがある。それは、震災で亡くなった人の3倍の人が震災後の数年間で亡くなっていること。孤独死、自殺、病死・・・。
震災で助かっても、彼らの心には震災の事実は重くのしかかっている現実があることです。
私たちは小さな支援ネットなのですが、何かの援助も大事なのですが、それ以上にどれだけ寄り添うことができるかを大事にしていきたいと思います。
そして、私援助する人、あなた援助される人という片方向ではなく、この働きに関わることで、この活動を通して私たちの成長の機会が与えられていることに感謝しようではありませんか。

2011年5月30日月曜日

5月ボランティア派遣報告と6月13日~16日派遣予定

 5月の支援活動の報告を掲載します。5月16日~19日にイザヤ58ネットの活動に賛同してくださった、福音伝道教団の牧師、信徒、そして飛び入りの他教団の方と共に、今回は石巻に入り、震災の後片付けの支援をしてきました。
 6月は、13日~16日の予定で、更に北の南三陸町に入って活動する予定です。今回は教会関係者ではなく、地元のコミニィティーの必要に答える形で、地元の地域の区長さんとコンタクトを取り、必要な働きをします。この働きに関心を持つ方、また教会が増えて、支援活動に参加される方が徐々に増えていることを感謝します。
 5月の支援活動に参加された方の感想を掲載します。
<活動報告>
今回、私たちのチームは石巻市に派遣されました。一日目は、石巻の被災地を日和山公園から見下ろし、その被害の甚大さを確認しました。この日は、今回のボランティア活動でお世話になったA兄(家の教会を通して近隣に仕えておられる)、B宣教師(ルーテル同胞)と顔合わせをいたしました。二日目、三日目は、石巻市のIさん宅、Nさん宅、Kさん宅に分かれて、それぞれのメンバーが床下の泥かき、庭の片付け、食器や家財の洗浄、瓦礫撤去等の活動を行いました。最終日は、午前中の片付けの活動を終えた後、仙台バプテスト神学校の森谷先生ご夫妻を中心にして食事の準備がなされ、クリスチャンのボランティア団体サマリタンズパースとジーザスライフハウスのボランティアの方々、そして先の被災されたご家庭の方々、総勢40名近くで昼食を頂きました。

<参加者の声>
(S.S兄)今回の活動を通じて改めて感じさせられるのは、主の新しい働きが始まったのではないかということでした。隣人になること、宣教することのチャンスを神さまは大きく切り開いて下さいました。そのことは活動を通じて被災者の反応からしっかり読み取れました。アプローチの長さなど支援活動の制約を考えると、ひとりのボランティアがひとりの被災者の支援者になることが出来ればベストなのではないかと思います。仙台バプテスト神学校の森谷校長は「ボランティアは活動期間が過ぎれば帰ってしまうが、被災者は“その場”に居続けなければならない」と継続的な支援の大切さを言っていますが、私たちには継続的なボランティア活動はなかなか難しいことです。しかし、その場に居続ける被災者の立場で必要に応えるなら、たとい数日間の活動であっても被災者の方々は、心を開いて下さることを経験しました。それこそ、神さまの働きであると思っています。 今回の参加者が皆感じていることですが、このつながりを大切にしたいと思います。そして、今後は、手紙で「継続的」に支援していきたいと思っています。ボランティア活動は、主の与えて下さった、隣人になるための大きな機会なのかも知れません。

(K.H兄)主の御名を賛美いたします。石巻の被災地で初めてのボランティアに参加させていただきましたが、各地区の教会の交わりが一つになって、守られ、同じ境遇で働きができたことを感謝致します。被災地の方々の今後の復興が一日でも早く進められるようにお祈りしています。今後のボランティアの活動のためにも引き続きお祈りいたします。

(T.S牧師)瓦礫の山、石巻の人々の笑顔、各国のボランティアの多さに心がとまった。東北がそして日本が愛されていることをひしひしと感じました。私たちチームにとっては、初顔合わせの即席チームなのに、以前からチームを組んでいたかのように、和気あいあいと楽しく、それぞれできることを、一つ心になってボランティアができました。これもボランティアの醍醐味なのかと思いました。

(H.S兄)今回、52歳で再就職を前に、初めてのボランティアで被災地へ行き、津波の被害は地震そのものの被害以上に後々まで大変であることを実感しました。少し大変な作業もありましたが、震災から二カ月を過ぎた今でも、個々の家ではまだまだ多くの援助を必要としており、継続的な支援が必要であると思いました。

(T.S姉)今回、仙台バプテスト神学校に押しかけのように来まして、チームに飛び入りで参加させて頂きました、JECAの教会員です。男性7人のそうそうたるメンバーの中に、一人女性として加えて頂き、恐縮です。被災地に立たせていただきたいという願い、何ができるでもない自分の思いを主にかなえて頂き、ボランティアとしての働きをもさせて頂けましたこと感謝です。力仕事などはとてもできませんでしたが、被災した家には女性ならではの細々とした片付け等の仕事もありました。その家の奥様と一緒に色々とお話出来、少しだけですが、実感できました事もこれからにつながるかと思っています。どうぞ、これからの働きがよりいっそう主に用いられるものでありますよう祈っています(T.S姉はご紹介にありますように、仙台バプテスト神学校で急遽チームに加わってくださり、共に活動をいたしました)。

(Y.S牧師)私はどちらかというと人と接するのが苦手です。しかも誰が参加するのか分からないこの働きは、出発前の私の心配の種でした。しかし、出発した車内ですぐにその心配は消えました。被災者のためにという共通の目的があるメンバーですが、それぞれが初めてだらけの事に向かう不安を持ち合わせているからこそ、不思議にすぐに一つのチームになるということが自然になされるのかもしれません。被災された方々の家の片付けは、楽ではありませんでした。しかし、主が、備えてくださるチームは様々な困難に向かうに必要な心の状態に整えてくださるように思います。チームでの車での移動の時、食事の時、すべての時が、神の家族を思わされる素晴らしい時でした。また被災された方々の家が片付けられていくことによって、心配、不安、失望のような表情が自然に笑顔に変えられていくという素晴らしい恵み、喜びの体験もさせて頂きました。被災された方々の悲しみ、苦しみに幾ばくかでも寄り添う心に私がさせて頂けたのは、やはりこの被災地を自分の目で見、ともに復興へのお手伝いをさせて頂けたからなのかも知れません。この働きは、長期的なものであり、そして、人目につかないような、地道な様々な協力が、いかに必要であるのかを覚えさせられました。自分のスケジュール等を調整し、主に与えられている時間を、今目の前にいる隣人のために使えるよう、主に整えられ、そしてまた、イザヤ58ネットを通して、派遣されていかなければと自分に語っています。隣人愛に生きようと努める時に、御霊が私を満たしてくださるという約束を信じて。

(T.W兄)私自身、初めてのボランティアでしたが、できる事、できない事があった。ただ自分自身できることを精一杯やれば、それだけでいいのではないかと思った。例えば、ドライバーを率先して行い、他のメンバーの負担を減らしたり、子どもと一緒に遊んであげたりだけでもいいのではないでしょうか。

(S.N牧師)共に祈るメンバーが与えられたことは大きな恵みでした。一日目に、日和山公園から見下ろした石巻市を前に、メンバーの一人が共に祈ろうと声をあげてくださり祈りました。毎朝、御言葉が開かれ、共に祈って一日が始まりました。出発前に、合間に、色々な形で祈りがつながれていく。後方での皆様の祈りと合わせて、祈りの中で活動が進められるのは、クリスチャンボランティアの特権だと思います。

<写真は、作業に入る前に石巻を見渡せる高台でお祈りをしている様子です>

2011年5月19日木曜日

イザヤ58ネット参加者募集案内

「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」 イザヤ58:10

 去る2011年3月11日に日本を襲った未曽有の大地震とそれに伴う津波によって多くの尊い命が失われました。今なお、悲しみと苦しみの中にある被災地にある方々とともに、キリストにある愛を持ってともに歩むためにイザヤ58ネットが、教団の有志を中心に立ちあがりました。この活動についての詳細は別紙をご覧ください。この働きのためには、大きく二つの支援を通して関わることができます。

①後方支援
  A.祈り:最も大きな働きです。できるだけ祈りの課題などをネットなどに公開します。
  B.財的サポート:イザヤ58ネットを通して派遣されるボランティアスタッフの必要のため
    口座<ゆうちょ郵便局 記号 10750 / 番号 22936321> 
<名義人 田島直秀>  ※イザヤ58ネット会計担当
  C.会計・事務(会計監査を含む):この働きのための会計や事務的なご奉仕
  D.広報(IT広報を含む):ボランティアの活動の様子や、現地の必要などを紹介する

※他にもさまざまな働きがあります。例えば、現地派遣のボランティアの方を集合場所へ送迎、留守の間残された家族への気遣い、関心を持って情報を集めるなど。

②現地ボランティア
他のボランティア団体と協力して、現地におけるボランティアの活動にかかわる。派遣の日程は以下に予定しております。ただし、現地の状況によって変更があることをご了解ください。また活動内容、車の都合により異なりますが人数(3-7人程度)が集まり次第、募集を終了いたします。

第一次派遣、「5月16日(月)から5月19日(木)」 活動終了
第二次派遣、「6月13日(月)から6月16日(木)」 募集締め切り間近
第三次派遣、「7月25日(月)から7月28日(木)」
第四次派遣、「9月5日(月)から9月8日(木)」
第五次派遣、「10月3日(月)から10月6日(木)」

※10月以降につきまして、復旧復興の状況を踏まえて、検討します。
※8月の派遣につきましては、何人かの要望があれば検討いたしますが、現時点ではありません。
※費用:交通費、ガソリン代、宿泊費はイザヤ58ネットが負担しますが、それ以外の保険、食費等は自己負担となります。
※参加を希望される方は、下記に連絡の上、登録をお願いいたします。

連絡先
鈴木真(戸塚キリスト教会) 電話 045-864-2423  Email: totsukagrace@ybb.ne.jp
吉田孝(足利キリスト教会) 電話 0284-72-6546

ブログ配信中:http://isa58net.blogspot.com/  

2011年5月12日木曜日

お知らせ

前回の「第二次派遣計画、第一次派遣の現地報告」のタイトルですが、正確にいいますと、第一次は「現地視察」でした。5月が「第一次派遣」になります。まあ、現地視察も実際は震災家庭の後片付けをして、実質第一なんですけど、一応、修正いたします。
hiroeさんからのブログで掲載されていた尾島教会震災支援コンサートを貼ります。そこでISA58NETの視察報告の時があります。皆さん、コンサートに来て下さい。

2011年5月10日火曜日

第二次派遣と第一次現地報告

5月16日(月)から19日(木)に第二次支援ボランティアチームが派遣されます。今回は、今市グループと群馬、栃木グループの二箇所から仙台を拠点に、石巻のルーテル同胞教団の宣教師が支援している活動に合流します。今回は、重機の扱いができる方も加わって心強いチームです。
第三次派遣は、6月13日ごろ予定しています。
今回は、第一次支援活動の報告を掲載します。

現地報告

現地の視察を通して感じたこと 中川信嗣
4月20-21日に現地調査及び現地でのボランティアのために、イザヤ58ネットの3名で東松島市に行って参りました。その時の様子について5つのことをご報告いたします。
第一は「静」。風光明美で名高い観光地を抜けるとそこは別世界でした。まず感じたことは「不気味な静けさ」でした。その不気味さとは、生活の息づかいが聞こえない静けさでした。それは、心を締め付けるような、あるいは悲しみの中に引きずり込むような静けさでした。
第二は「絆」。私たちが、片付けの手伝をさせていただきましたお宅は、退職したご夫妻が、海辺を見ながら余生を過ごしたいという願いで建てられた、海を間近に望む場所にありました。しかし今、奥様は避難生活をされ、ご主人がその家に戻ることは二度とありません。親族の方々が来て、何かを確かめるかのように、母屋をのぞき、何かを思い起こそうと庭を踏みしめながら歩んでおられました。どんなことを思い、また何を自分たちに言い聞かせているのか。改めて家族の絆を見ました。
第三は「重」。今回のボランティアを通して改めて感じたことは、九五年の阪神・淡路大震災の時と違って、ヘドロの除去という作業が行く手を阻んでいることでした。家の下にまで入ってしまった重いヘドロを除去しなければ、建物が残っていても住めない。そのためにはどれほどの費用がかかるのか。そんな家族のつぶやきを聞いた時、残されたものにとっての辛い現実をみたような気がしました。
第四が「命」。被災地は痛いほどの悲しみや絶望にあふれていました。しかし、ヘドロをすくいあげると、そこには虫の幼虫が、その庭の中には、美しい梅の木が、そして、仙台の宿泊所で、朝の到来を告げたのは、ウズイスのさえずりでした。希望を感じさせるいのちの足音でした  
第五は「援」。私が、出掛けることを誰よりも心配したのが妻でした。余震も続く中で、家族のことが気にならないわけではありません。そんな中、あるボランティアの方に起きた一つの出来事にハッとしました。その方の家族にちょっとした問題が起きたという連絡が入りました。すぐに近所に住んでいる教会員の方に自宅に行ってもらい、事なきを得ました。この出来事は、もう一度、現地に行くボランティアばかりでなく、ボランティアを送りだすために周りの支援が必要なことを思わされました。一人一人のボランティアのあり方があり、それを考えていきたいと思います。
最後に、その家の片付けを終えて、少し先の地区に入りました。そこは、規制が解除されたばかりの場所でした。そこには、今なお、言葉で表すことができない状況が残されたままでした。その現実を目の前にして、改めて復興のために「息の長い関わり」の必要を思わされました。引き続き、イザヤ58ネットの働きを通して、私たちにできることをさせていただきたく思います(この原稿は、アサパル大泉第328号に掲載させていただきましたものの一部変更して掲載いたしました)。

2011年5月1日日曜日

イザヤ58ネット・支援の祈りのネットワーク

震災の被災者、支援活動など祈りの課題をあげました。ぜひ、お祈りください。
イザヤ58ネット・祈りの支援ネットワーク
被災者のため
1.家族を亡くした被災者家族の心の傷が癒されるように。
2.いまだ電気、水道などが止まっている家庭のライフラインが一日も早く復旧するように。
3.避難所で生活の中での健康が守られるように。
4.仮設住宅、職場などの生活の場が早く整えられますように。
5.全てを失い、将来の見通しが立たない方々に希望が与えられるように。
6.被災した高齢者、子ども、病弱な方々など弱者の救済が滞りなく進むように。
被災した諸教会のため
1.被災した、教会の今後の礼拝、教会形成のために。
2.散り散りになった教会員への牧会をしている牧師夫婦のため。
3.津波で会堂を流された気仙沼第一聖書バプテスト、宮城聖書教会、シーサイドチャペルのために。
4.原発事故で、避難地域の中にあった福島第一バプテスト教会の牧師、教会員の今後のため。
福島第一原子力発電所の事故関連
1.放射能汚染されたタービン建屋、トレントの水が早く移動できるように。
2.原子炉や燃料プールの冷却が効率よく行われるように。
3.放射能物質を含むガレキや汚染水が取り除かれ、漏れている場所が修復できるように。
4.状況を改善しようと命がけで作業をしている方たちに知恵と力が与えられるように。
5.作業する方々が、被爆から守られるように。
6.国民が平静さを保ち、パニックを起こさないように。
7.予断を許さない状況の中、成すべき事が整い、神の守りと助けがあるように。
日本社会と私たちのために
1.近隣地域と私たちのために
2.産業のつながりが再構築できるように。
3.漁業、農業、畜産業、製造業が回復するように。
4.風評被害から、地域産業が守られるように。
5.風評に私たちが荷担することがないように、平静な購買判断ができるように。
6.観光産業が、打撃から早く回復するように。
7.為政者が政治的な思惑から離れて、復旧、復興支援に対して適切な判断と行動力が与えられるように。
教会と教団のため
1.私たちクリスチャンが震災を目の当たりにして目をそむけない強さを持てるように。
2.マイチャーチ主義ではなく、支援活動が自らの教会、教団の成長につながる信仰に満たされるように。
3.この震災を通して、神さまが日本の教会と私たちキリスト者に何を教えようとしているのか洞察できるように。
4.この震災をきっかけに、日本人の意識が変わる部分が何で、教会は、それらにどう対処するのか霊的洞察力が与えられるように。
5.牧師が危機における牧会、教会指導について、備えられるように。
支援活動関係
1.今、自分たちが自分らしくできる具体的支援は何か。
2.クラッシュジャパン、ワールドビジョン、飢餓対策機構、仙台バプテスト神学校支援ネットの働きのため。
3.ボランティアなど具体的支援が教団全体で取り組めるように。
4.イザヤ58ネットの働きのため。

2011年4月24日日曜日

現地調査報告会

仙台に調査に行った報告会をします。
福伝関係の方々、東日本大震災の災害支援に関心のある方、ぜひおいでください。
日時:4月26日(火)、午後2時より
場所:福音伝道教団足利キリスト教会
いろいろ、現地に行ってわかってきたことがあります。
今後の、支援のための話し合いたいと思います。

2011年4月21日木曜日

イザヤ58ネットの起ち上げ

私たち福音伝道教団の有志は、今回の東日本大震災救援と他の人を助けることを通して、自らもキリストの成長を期待するネットワークを作りました。
名前の由来は、旧約聖書イザヤ書58章10~12節の御言葉からです。

8:10 飢えた者に心を配り、
   悩む者の願いを満足させるなら、
   あなたの光は、やみの中に輝き上り、
   あなたの暗やみは、真昼のようになる。
 58:11 【主】は絶えず、あなたを導いて、
   焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、
   あなたの骨を強くする。
   あなたは、潤された園のようになり、
   水のかれない源のようになる。
 58:12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、
   あなたは古代の礎を築き直し、
   「破れを繕う者、
   市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。

4月20日~21日に調査のため、仙台に代表が行きました。